2015年9月30日水曜日

週刊「猫並日記」2015 (8.19〜8.21)

2015年8月19日(月)
18日の未明、義父が亡くなりました。2ヶ月ほど前、誤嚥性肺炎に罹り、病院で治療を受け、一時は回復したものの、先週くらいから容態が悪化、足しげく病院に通っていた秘書が亡くなる前日の17日に面会したときには、すでに昏睡状態だったということ。そんなわけで、彼女も覚悟を決めていたので、特に悲嘆にくれる感じでもなく、わりとさばさばとした感じではあります。義父は真面目一筋、無口で穏やかな性格だった。92歳の生涯でした▶たまたま、義母も義父と同じ病院に入院しており(義母は熱中症からの軽度の疾患で、もうすぐ退院できるとのこと)、秘書と義姉の訪問のあと、義父が危篤状態に陥ったわけだが、病院側の計らいで義母を面会させたということ。義母も高齢(89歳)で、このところ身体が弱ってきており、もし同じ病院に入院していなければ、臨終を看取ることはできなかったかもしれない▶義父とは秘書と結婚して以来、毎年の正月や米寿、卒寿のお祝い事の折には会っていたが、今年の正月は諸事情あり、お会いしていなかった。ここ数年、お会いするたびに身体が弱ってきているのを感じてはいた。秘書はどちらかと言うと外見も性格も父親似で、お父さんのことが大好きな娘だった。ぼくの父もそうだったが、天寿を全うする年齢での逝去は、残念ではあるが、自然の理、送る側の心も特に波立つことはない。今日はこれから通夜に参列するため横須賀に向かいます。そして、明日は告別式。

先週土曜日はカレー/日曜日は日曜レレ教室やって、冷やし中華、タン塩/月曜日は、餃子、エビチリ、酢豚、棒棒鶏等の中華総菜、厚揚げ豆腐とサヤエンドウの煮付け、キュウリとワカメの酢の物/昨日は火曜レレ教室やって、台湾風ピリ辛焼きそば。秘書の外出多く、総菜屋の総菜、コンビニ食品が多かった(不満はないけど)。写真は母の病院そばの海辺にとんぼ群れ飛ぶの図。8月ミッション時に撮影。

2015年8月21日(金)
一昨日、昨日と義父の通夜、葬儀に参列した。喪主である義母はまだ体調が優れず、参列が叶わなかった。義父は4人兄妹の長男であったが、弟、妹はすでに他界し、参列者は義父にとっては甥姪の方たち、またその子どもさんといった方々で、秘書やお義姉さん夫婦、義甥、義姪を除けば、ぼくにとってはお会いするのは初めての方々ばかりだった。秘書にとっても随分久しぶりに会うような人たちで、葬儀というのは親類縁者の旧交を温める場になるということだ。葬儀も火葬も滞りなくスムーズに終わった▶義父は生まれも育ちも横須賀で、終戦まで横須賀海軍工廠で造船技術者として勤務。終戦後、海軍工廠は米軍に摂取され、米軍横須賀基地となるわけだが、義父は技術力を買われ、そのまま米軍の船舶修理の技術者として迎えられる。そして定年まで船舶関連技術者一筋の仕事を続けることになる。当初は敵国に雇用されることを潔しとしなかったようだったが、背に腹は変えられぬ決断があったようだ。また、上司になるアメリカ軍人は思いの外、紳士で、日本人技術者に対して、敬意をもって優しく対応してくれたということ▶年齢的にはいわゆる戦中派だが出征することはなかった。兵役検査のときに怪我を負っていたことで免れたとか、秘書は聞いたらしいが、海軍工廠での仕事を続けさせる方が国益になると国が判断し、兵隊に取らなかったということも考えられる。また、横須賀は空襲も免れたそうで、それは米軍が戦勝を見込み、終戦後は海軍工廠の設備を摂取する算段があったことが理由らしい。頷ける話ではある▶義父は無口で穏やかな人柄だったが(その穏やかな風貌ゆえに)、秘書と結婚仕立てのころはちょっと怖い存在だった。なにしろ、初めて会ったとき、義父はぼくの顔も見ようとせず、口も利いてくれなかった経緯がある。嫁ぐ娘の父親の、婿に対する典型的な思いと言えばそれまでだが、娘の夫になる男(ぼくのことだが)が、義父にしてみればこんな男(長髪、軟弱、甲斐性なさそうな唄歌い)にだけは娘をあげたくないという、これも典型的な例だったのかもしれない。年月が経っていく内に打ち解けていったが、義父にとってぼくは、少なくとも愛すべき娘の理想的な夫ではなかったことを申し訳なく思う。まあ、天国ではなにもかも許してくれていることだろう▶遺された者の人生は続く。ぼくは父に死別された母に、秘書は秘書で、今度は義母の介護の問題が続く。ぼくもいい年になって、送る側の立場になる機会が増えた。「メメント・モリ(死を記憶せよ)」という警句の意味を考える機会にもなる。

写真はアフリカ系朝顔っていうのかな。ずっと咲いてるやつ。

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