2015年6月26日金曜日

週刊「猫並日記」2015 (6.2〜6.5)

2015年6月2日(火)
<この子らを世の光に>というのは本日朝日「折々のことば」(鷲田清一・選)。「社会福祉の父」と呼ばれた糸井一雄さんの言葉。糸井さんは、戦後混乱期から知的障害のある子どもたちの福祉と教育に尽力し、日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られた、ということ。1968年没▶「『この子らに世の光を』ではない。逆である」と鷲田さん。重度の障害児に対して、「世の施し」を授けるのではなく、この子たちの存在こそが「世の人々に対する施し」であると解釈できる。この子たちに「与える」のではなく、この子たちから「与えられる」という考え方ですね▶「重度の障害児が『だれととりかえることもできない個性的な自己実現』をしているのを目撃した糸賀は、この子らと家族がもし不幸であれば、私たちの社会もまた不幸であると考えた」と本文。このことは「重度の障害児」を社会のエッジに生きる社会的弱者と置き換えてもいいかもしれない。弱者に厳しい社会は幸福な社会とは言えないだろう▶ぼくもかつて発達障害児に関わる仕事をしていたが、「現場」から離れて、普段はあまり「この子たち」の存在を思わなくなった。ときおり、こういう言説に触れると、そうだよなあ、わかるなあ、と身を正す思いにかられる。

昨日はサボり気味の散歩をひさしぶりに。サバの味噌煮、野菜かき揚げ、ひじきとレンコンの煮付け、大根なます、煮豆、豆腐とほうれん草の味噌汁/ざるそば、薩摩揚げ/塩サバ、豆腐しんじょ、キュウリとこんにゃくの酢の物/ピーマン肉詰め、ブロッコリー、トマト、人参のサラダ、フキと油揚げの煮付け、もずく酢


写真はシロツメクサ越しのサンデー@ザ・パーク。シロツメクサ(白詰草)の名前の由来は、「1846年 (弘化3年)にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたこと」(Wiki)だと。帰化植物のひとつだが、「根粒菌の作用により窒素を固定することから、地球を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている」(Wiki)だと。

2015年6月4日(木)
<かたつむり原罪かるく背負いたり>というのは母の句。新美南吉の「デンデンムシノカナシミ」では、背負っているのは(誰もが背負っている)悲しみであったが、母の句の場合は「原罪」。旧約聖書的に言えば、エデンの園において、禁断の木の実(「善悪の知識の木」、絵では大体リンゴみたいに描かれてますね)を、蛇に「この実はうまいぞ、食え、食え」とイブがそそのかされ、食ったわけですね。で、「おいしいわよ、あなたも食べたら?」とそばにいたアダムに勧め、「そうかい? んじゃ、おれも食ってみっかな」とアダムも食ってしまったことから人類に受け継がれた罪、ということになるんでしょう▶で、二人が禁断の実を食ったあとに、イブが「あら、私たち素っ裸じゃない。まあ、恥ずかしい。どうしましょう」と、イチジクの葉っぱで腰を覆い、アダムもそれに倣ったと。羞恥心というものが芽生えるわけですね。そして、禁断の実を食った罰として、楽園であった「エデンの園」を追われ、女には産みの苦しみを、男には「働かざるもの食うべからず」みたいなペナルティを神から課せられるというわけです。それが原罪。「イブさん、なんであんとき、神様から食っちゃいかんと言われてた実を食っちゃったの?」とぼくは言いたい。イブが禁断の実を食わなければ、今ごろもぼくらは一年中温暖な土地で素っ裸で暮らし、食べ物もそこらで取り放題の安楽な生活ができたのにと▶ともあれ、母の句の場合、人類だけでなく、かたつむりも「原罪」を背負っているわけだが、「かるく」背負っているわけで、ぼくらもまあ、そういうめんどくさいものは軽く背負うくらいにしたらよろしいのでは、と思います。昨夜はレレ教室でポロリンコ♪ ウクレレは軽いので背負うのもらくちん(笑)/一昨夜は豚肉生姜焼き、冷や奴、野菜サラダ/昨夜は牛丼、ハムポテトサラダ、ほうれん草の味噌汁。

写真は何年か前に投稿した「道ばたに自らの道程を記すかたつむり」。「この距離を歩むのにどれくらいの時間がかかったのだろうか。遅々とはしているが揺るぎない意思の軌跡」と投稿文に書いた。うん、「かるく」原罪を背負っているようにも見える。

2015年6月5日(金)
<額あじさいやがて星になるつもり>というのは母の句。メルヘンな句だね。母の少女趣味があらわれている。老いてなお、心に少女が棲むのが女であるならば、年を取っても少年の心を失いたくないと思うのであります。くもり空の今日はいくぶんクールダウン、こんな日があじさいに似合うと思う。カレーライス、野菜サラダ

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