2013年6月21日金曜日

WeeklyTweets 2013 (6.10~6.16)

2013年06月10日(月)
亡くなった卒業生の告別式に参加。自宅葬だということで近親者+αくらいの葬儀かなと思っていたら、けっこう多くの人たちが集まった。襖などを取り払い、2部屋続きの空間に祭壇をしつらえ、室内に入りきれない人たちは庭からの参列、故人を多角から囲むような形態で、親密感が増すように思った▶昨年2月に発症し、いったん回復に向かったが、今年2月に病状が悪化、最期は家で看取るという方針のまま、出棺も自宅からというのにご家族はこだわったようだ。家に戻ってきたことを、A学院の彼女の友達などは病気が良くなったと解釈し、それがぼくに伝わっていたので今回の訃報には驚いた▶享年は34才、若い人の葬儀は不憫でならない。ご家族の嗚咽を目の当たりにし、こちらも涙腺が緩んだ。読経の後、出棺、火葬場にも行き、ご自宅に戻り、会食。A学院の生徒たちも亡くなった子の同期を中心に7名ほど参加、久しぶりに会った彼らが随分しっかりしていたので、そのことは嬉しく思った▶お母さんと少し話をしたが、最期は本人も痛みを感じない状態だったそうで、それがせめてもの救いだったと。臨終直前、ご家族が見守る中、突然「ああ」と声を上げたそうだ。「ありがとう、って言いたかったんだと思います」とお母さんが言った▶亡くなった卒業生の自宅は、私鉄駅からバスに乗り、細い坂を上ったり、下ったりする住宅地の一角にあった。写真はその家に向かうとき、目を引いた深紅のゼラニウムが咲く石段の光景。黄泉の国へ導く石段のように見えた。
posted at 01:29:34
 
2013年06月11日(火)
<派兵論梅雨のこの路抜けられる>とは父の句。かつての自衛隊のイラク派遣についての句であろうが、難解な句だ。この俳句をぼくなりに「意訳」すれば、「梅雨の時期に傘をさして歩いていて、ふと抜けられる道があるのに気がついた。派兵論というものはそういう抜け道のようなものだ」という感じか▶自衛隊のイラク派遣は03年から09年にかけて行われたが、そもそもイラク戦争の大義が疑われている今となれば、結局日本はアメリカの追随をしなければ成り立たない国であることの歴史的事実だけが刻まれた出来事であったように思う。喧々諤々の議論も、結局「抜けられる路」があるという事実▶句集に戦争にまつわる俳句もいくつかある父は「穏やかな反戦主義者」だったと信じている。憲法を改正しようとする現政権について、父はどういう俳句を詠んだろう、とぼんやりと考えた。抜け道を探すのに聡い連中が揃っていそうだが、かんたんに抜けられては困る。親子丼、青菜の酢みそ和え。味噌汁。

写真は近所のお気に入りスポット徳善寺に咲いていたシモツケ。徳善寺で写真を撮っていると住職夫人(おしゃべりな婆さま)から話しかけられるようになったが、その婆さまこの花の名前を聞かれたので、得意げに教えてあげた。たまたま知っていたんです。 ▶で、こちらがナナカマド。これは婆さまが「ナナカマドも咲いてますよ」と教えてくれた。婆さまは境内の掃除をマメにしていて境内はいつもきれい。人の良さそうな方だが、話し相手になってあげると延々と話してくるのがちょっと難点。
posted at 02:32:23

2013年06月12日(水)
レレ教室昼間部火曜クラス@大和でポロリンコ♪ 夜はレレ教室夜間火曜クラスの生徒さんお二人と飲み会@大和、レレ話となんだか自分史語りを生徒さん相手にぶっこいてしまったな。いや、おじさんは昔話が好きなんだ。サッカー見ながらうたた寝して、岡崎のゴール直前で目が覚めた。明日もレレ教室。
posted at 03:25:26

2013年06月13日(木)
レレ教室の生徒さんに電話で起こされる@朝8時。シニア世代のその生徒さんはぼくの朝8時は一般的時間帯の夜中の3時ごろだとはお知りにならない。結局起きて、レレ教室水曜昼間部クラスでポロリンコ♪ 新規生徒さんのために午前中に「ウクレレ・はじめのはじめレッスン」をやった後、午後クラス▶初心者さん(シニア世代多し)対象ポロリンコ・レッスンでみっちり3時間、楽しくやれたと思うけれど、ちと疲れた。夕刻帰宅して夜まで「夕寝」。以前、ウクレレ教室の生徒さんのお一人(おばさま)が生まれて初めてのマイ楽器となるウクレレを娘さんに買ってもらった話を書いたが、今度はおじさま▶もう3回ほどレッスンを続けている無口で渋めの団塊世代男性、レッスン終了後、ウクレレを購入しようと楽器屋に行ったがどれにするかアドバイスをと、ぼくにウクレレのカタログを見せた。その方ははっきり言ってかなりチープなウクレレをお持ちだった▶いくつかの候補から単板材のものをお勧めして、「はっきり言って、今お持ちのものよりはるかに良い音がすると思うので、練習にも身が入りますよ」と言ったら、普段難しい顔をしていることが多い彼は、にっこり笑って「父の日にね、息子がプレゼントしてくれるっていうものだから」と。良い話じゃない?▶山下は最近ウクレレ教室、頑張ってるんじゃない? と思われた方、はい、好調に推移しておるよ。さてと、ざんざかざんと雨が降っております夜の底。カレイの煮付け、青菜とタケノコのガーリック炒め、豆腐の味噌汁。写真は葡萄の幼子@近所の葡萄畑。
posted at 03:28:35

2013年06月14日(金)
ぼくは携帯というものを長い間、持たなかった。それは「主義」というわけではなく、単に必要性を感じなかったからだ。2000年代前半、携帯普及率が50パーセントを超えたあたりは学校講師時代の後期で、生徒たちを連れて合宿授業や社会科見学に行く機会等には、携帯があれば便利だと思ったが、生徒の携帯を借りて(ちゃんとお金を払って)用件を済ませた▶携帯の普及率が100パーセント近くになる頃には、フリーランスに戻って自宅で仕事をする生活だったから固定電話とPCメールがあれば事足りた。持たない主義の人が言う「どこにいても連絡があるというのは嫌」というのも理解できたし▶まあ、携帯というのは他者のために持つという側面もあるが、ぼくが携帯を持つことを望むような他者はぼくにはあまりいなかったので、持たずとも誰からも不平を言われることはなかった▶ただ、2年前父が亡くなって、母も特養に移り、実家の家電を解約した段階で、帰省した際、電話をかけたり受けたりすることがはなはだ不便になり、必要性に迫られて携帯を持つことになった。ただし、通話のみの基本料金が一番安い契約で、現在も年に数回帰省するときくらいしか使う機会はあまりない▶でも、人と待ち合わせて外出するときは一応持っていき、それなりの安心感と利便性は感じる。ときどきは使って、10年前携帯を使い始めた人のように「携帯って便利だなあ」と思ったりする。あと、目覚まし時計&万歩計(そういう機能がある)代わりにも使っていたりもする▶だから月々の使用料金はほとんど基本料金だけだが、ついこの間、契約電話会社名義の7千いくらかの使用料が口座から引き落とされていたんだね。ぼくはそういうのに無頓着だからウチの秘書が見つけた。「この7千いくらの使用料ってなーに?」と。ぼくにも秘書にも心当たりはなかった▶その月の基本料金は別の日に落ちてたし、不審に思ってまず契約電話会社に連絡した。電話会社担当から「家族の他の誰かの使用料金、何か新規の回線等の契約料金、あるいは口座カードの第三者による不正使用」という可能性を指摘された。カードの不正使用であればまずい事態だ。他は心当たりはない▶電話会社は引き落とした金額の明細を調べるのは難しいと。そして何度も「あなた以外の家族であなたの携帯を使った人がいるのでは」と聞かれた。そんな人間は秘書以外におらん。また最近カードを紛失したことあるのかとも。それはないので、なんらかの方法でカード情報が盗まれたのかもしれないと▶とりあえず電話会社には「調査の対象」にしてもらい、次にカード会社に連絡したら、「発生した金額は電話会社の請求によって落とされたもので、もしカードが不正使用されたのなら調べるのに数週間かかる」と言われた。カード番号を変えることも考えたが、変えたとしてもいったんその番号で他者が電話会社と契約し、料金を支払ったらまた同様なことが起きるとも言われた▶調査には時間がかかるので、電話会社の回答を待った方がいいかもしれないとも。利用者が心当たりのない金額を引き落とされ、その明細が双方の会社にはすぐには把握できないという、まったくふざけた話だ▶それが4日前のこと。それで電話会社、カード会社双方からここのところ毎日電話があり、調査経過の報告や調査のための質問に答えていた。そして双方の会社とも慇懃な物言いの中に利用者(ぼくのことだが)の勘違いなり、ミスを疑っているフシがあった。私どもはそのようなミスをすることはない、と▶ぼくも大手電話会社や銀行がミスをするとは考えにくかったから、カードが不正使用された可能性が高いと思うようになり、困ったことになったもんだ、どーんと不正使用されたらどうしようと秘書と心配していた。その場合の保証については聞かされたが▶で、昨日、銀行カード会社から電話があり、「誠に申し訳ない、○○カード会社の請求ミスでした」と。いったん引き落とされた金額については本日付けで振り込まれたが、まったくもう、という話でありました。特に銀行の担当氏が慇懃無礼なやつだったので、ねちねちといじめてやろうかと思ったがやめた▶電話会社の方にはカード会社のミスであったことを連絡。一件落着となったが、ぼくよりはマシとは言え、秘書もお金にわりと無頓着(ビンボーなのにね)、引き落としが気がつかなかったケースも十分ありえたんだ。これって「安全神話」を妄信していたどこかの組織に似てるなと、いうことでチャンチャン。
posted at 02:32:57
 
関東地方だけ雨の日だったのか。今もしとしとぴっちゃんの夜の底未明。チキン・フリッター(ウチは鶏肉の出動回数多し)、レタス&ポテトサラダもずくの味噌汁、キュウリとカブの糠漬け。写真は♪この実なんの実、木になる実〜。赤きグミがなる初夏▶ねっとりと湿気がまとわりつくような午後の散歩。でもぼくはこういうじめじめした空気が意外と好きなんだ。というのは、7年ぶりにLAから日本に帰ってきたのが6月で、空港を出た瞬間にじとっとした空気がまとわりついてきて、ああ、これだこれだこれが日本の空気だ、とすごく懐かしかったんだね▶それ以来、日本の湿った空気が好きになった。LAは年中乾燥してるからね。でも、ジトジトが好きというのはちょっとマイナーかも。てなことでジトジトの本日の空シドレミファwithちっちぇえホーガンも夏仕様半ズボン▶散歩ロードのこの木が好きでね。水分をたっぷり含んだ空気を吸って青々とした若葉を風に揺らしている。この写真、じっと見ていると雲がわずかに動いているように見えない? 木々草木、花昆虫、生命の息吹に窒息しそうなくらいの散歩ロード周辺。
posted at 19:35:11

2013年06月15日(土)
<青蛙コンプレックス何もなし>というのは母の句。母が老人性鬱病に罹る前、もう10年近く前になるが、そのとき実に13年ぶりくらいに生地の下関に帰省したのだった▶なかなか気安くふるさとに帰れなかった理由があって、それは高校時代のトラウマ的な体験からだが、とにかく、帰りたいという気持ちにならなかった。両親はぼくが長い間、帰省しなかった時期も時折、上京してぼくや兄を訪ねたから両親に会いたくなかったということではなかった▶ひさしぶりに訪ねたふるさとは、町並みもかなり様変わりして、高校時代の忌まわしい記憶も蘇ることはなかった。むしろ久しぶりに出会うふるさとの人々の懐かしい言葉や所作をとても好ましく思い、ようやくその記憶の呪縛から解かれたような思いがしたものだ▶両親はまだまだ元気で、父は油絵を楽しみ、母は俳句作りにハマっていた。母は「あんたも俳句をやらんかね。楽しいよ」とぼくに俳句作りを勧めたものだった。「母ちゃんはどんな俳句を作りよるん?」と聞けば、「青蛙コンプレックス何もなし」と朗らかな口調で言い、「ええやろ?」と微笑んだ▶「俳句ってそんなんでええの?」と言えば、「わたしは古くさい普通の俳句やらあまり好かん」と笑った。ぼくも母のその句の、ちょっと突拍子もないが生き生きした描写が感じられて、なかなか良いではないかと思ったものだ。そんな楽しげな母が10年前は、確かにいたのだ▶その翌年の春に母は鬱病に罹り、ぼくは介護帰省することになるが、あまりの母の変貌に少なからずショックを受けた。それから10年を経て、結局母の鬱病は治ることなく、身体的にはかなり衰えたと言ってもシリアスな病気もせず、なんとか「底値安定」で特養に暮らしている▶あのときの13年ぶりの帰省は、だから、心身ともに元気だった母に会えた最後の機会だったことになる。もちろん今の母もぼくの大事な母に変わりはないのだけど。画像はFB友、直井氏撮影による青蛙。確かにこやつ、コンプレックスなど何もないようだ。
posted at 02:53:24

ここのところ、花にばかり目が行き、空写真をあまり撮らずにいたが、昨日の空はこれぞ六月の空という感じだった。てなことで写真は昨日の「六月の空シドレミファ」と黄色いバラ中華丼、イワシの南蛮漬け。 
posted at 03:28:54

2013年06月16日(日)
<青柿よわが青春の瓢吉よ>というのは父の句。「瓢吉」というのは尾崎士郎「人生劇場」の主人公、青成瓢吉のことだろう。読んだことはないが、この大河小説のオマージュと言われているのが五木寛之「青春の門」で、「青春の門」なら映画を観たことがある。あれで一時、大竹しのぶのファンになった▶映画「青春の門」の大竹しのぶ、良かったなあ。主人公との別れの夜に、その、一晩だけの「愛の夜」にだね、主人公の男に「して!」って言うんだよね、デビューしたての大竹しのぶが。あのシーンは良かったよ。あの感じがぼくの理想の「愛の夜」だな。話が横道に逸れた▶ともあれ、「人生劇場」も、主人公の青成瓢吉の青春期から、「愛の夜」とかいろいろあって人間として成長していく過程、それこそ「人生劇場」が綿々と語られているのであろう。この小説が単行本として最初に刊行されたのは昭和10年というから、父が若い頃の愛読書であったのだろう▶青成瓢吉は田舎から大学生として上京し、「人生劇場」の青年期を送ることになるが(読んでないけど)、父も同様に田舎から大学生として上京し、大学生活を送ることになる。その頃の話は父の口から聞いたことはなかったが、句集を自費出版した際、巻末にそのころの楽しかった日々のことを書いていた▶青成瓢吉は仁侠の世界に関わりを持ちつつ、作家の道を志し(読んでないけど)、「青春の門」の主人公、信介は戦後の活気に充ちた日本を紆余曲折しながら逞しく生きていく感じだったけど、父の青年期は彼らとはだいぶ違っていて、父は大学卒業と同時に中支方面に兵役に就くことになるのだった▶そして終戦を迎え復員、翌年に母と結婚する。こうした父の経歴も彼の口から聞いたわけではなく、句集の巻末の「略歴」に記載されていたことでぼくは知ることができたのだが。ともあれ、大学生になって結婚するまでの期間は、普通、振り返れば懐かしい青年期であろうが、父はその青年期の大半を戦地で過ごすことになったわけで、それは残念な青年期の過ごし方ではなかっただろうか▶それでも「瓢吉」を「わが青春」としたように、父にも懐かしい青春時代があったのだと思う。たとえ、それが戦争の足音が聞こえる暗い時代から戦火の時代であったとしても▶それは父と同世代の多くの高齢の「戦争体験者」の人たちにも共通する「青春」だと思う。彼らは声高に反戦を叫ぶことはしないだろうが、戦後生まれの政治家の「若造」が戦争について、したり顔で放言するような今の風潮をどう感じているのだろう。「知る者は言わず、言う者は知らず」、老子の言葉。
posted at 01:28:54
 
父が亡くなってから、むしろ父のことを多く考えるようになった。もっと父と話したかった。父ちゃん、天国の居心地はどうかね? 今日は父の日だ。牛丼、コールスロー、青菜と椎茸、豆腐の吸い物。写真はウチの前の家の「青春期」の青柿
posted at 01:33:53
 
さてと今日はこれからレレ教室@荒木町「ゆうむ」。根津ウクレレ団「ヨコシマーズ」のデビュー・ライブは今夜。一応音楽ディレクターとしてライブ直前の諸々をアドバイスする予定。楽しみだな。写真は梅雨空のアゲハが飛び立つところ。
posted at 12:22:15

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