2011年8月29日月曜日

WeeklyTwitts 2011 (8.22~8.28)

2011年08月22日(月)
「雨の日と月曜日は」というカーペンターズの曲があるが、「雨の日と月曜日は」に続く歌詞は「いつも気持ちが塞いでしまう」(Rainy Days and Mondays always get me down.)。「雨の日の月曜日」はなおさら。「冷たい雨の日の月曜日」はさらに倍率どーん▶てなことで、ちょい塞ぎ気味の「雨の日の月曜日」、起床8時。昨夜の晩飯メニューはピーマンの肉詰め、もずく酢、玉子かけご飯、パラ本りえちゃんからいただいた胡瓜、瓜、茄子のぬか漬け、おいしゅうございました。
posted at 10:17:03

父の最後の言葉は「おいしゅうございました」。MRI検査後の病院での昼食、父は箸を使うことが難しくなっていたので、僕は食べ物を一つひとつ父の口に運んであげた。けっこうな食欲を示し、ほぼ完食したところで、食器を片づけに来た職員に「おいしゅうございました」と言ったのだった▶父は翌日から自分で食べ物を嚥下するのが難しくなり、それから亡くなるまでのほぼひと月は点滴、輸液が最後の命のエネルギー源となった。あの日の昼食メニューは肉野菜入り茶そば、ゴボウの煮付け、オクラ。オクラは口に運んでもあまり進んで食べなかった。オクラはあまり好きでなかった父。
posted at 10:57:13

父の遺品その1「眼鏡」:父は僕が物心がついた頃から眼鏡をかけていた。僕が物心がついた頃から禿げてもいた。父の眼鏡をかけてみたら、案外近視の度は軽く、僕の方が近視度は高かったが、僕の顔にぴったりとフィットした。これは親子故。
posted at 13:05:31

父の遺品その2「時計」:この時計を父は長い間愛用していた。グランドセイコー、おそらく60年代後期のビンテージと言って良い手巻き腕時計。竜頭をじこじこと巻けば今でも(ハイビートで)動くお父さんの古時計。
posted at 13:33:19

父の遺品その3「ハーモニカ」:父の部屋を整理していたとき、引き出しの中にひっそりとしまわれていた「トンボバンド」24穴のハーモニカ。ちょっと吹いた跡があったが、ほぼ新品。不器用で楽器はできなかった父のいじらしい「挑戦」を感じた。
posted at 13:43:46

2011年08月23日(火)
明日からまた暑くなると天気予報、こちら既になんだかもわっとしてきたような深夜1時過ぎの神奈川県央。とりあえず朝までは涼しくしててくれていいぞ。キーマカレー、食後に水ようかん。
posted at 01:25:13

ああ、これをつぶやいて寝ようと思った。「更迭」あらため「勇退」経産省3首脳、松永、寺坂、細野らの薄汚い顔を晒してくれてありがとう、TVタックル。
posted at 01:44:49

予報違わず、そこそこ暑くなってきたな。ここ数日お休みいただいていた扇風機クンに再稼働願った。蝉も「やっぱ、夏は暑くなくっちゃミーン」と嬉しそうに鳴いておる。9時起床。
posted at 11:30:00

午後図書館、普段はあまりチェックしない文庫本コーナーで本をセレクト。この伝統的アナログ軽量小型サイズの印刷物、日本の誇るべき紙メディアでありましょう。なぜ文庫本か、明日から週末にかけてまた帰省することになったので、そのお供に▶図書館からの帰路、ドコモショップに立ちより、公衆無線LANサービス「Mzone」の申し込みをした。日額プランで都度払い525円、これで新幹線の中、ハンバーガーショップとかでネットができる。これで帰省の際のメールチェックはばっちりさ。でも、Mzoneって怪しげ、Vゾーン付近か。
posted at 17:22:41

2011年08月24日(水)
僕は何事も直前にならないと動き出さないタイプ、直前という状況がないとモチベーション物質が脳内に分泌されないんだな。とか、行き当たりばったり的な性格の言い訳をするタイプ。でもさ、行き当たりばったりって、わりと良い結果を残すんだな、経験から言うと▶なんてこと思いつつ、明日の帰省の準備はまだできていない。かったるくなってきたので、明日早く起きてやろうっと。オムライス、小エビの天ぷら、モヤシお浸し。
posted at 00:54:30

さてさて今夏第3次帰省、そろそろ参ります。こちらに戻ってくるのは日曜日を予定。今回はウクレレをキャリートランクにしのばせたよ。
posted at 08:06:49

新幹線なう(と、つぶやいてみたかった)。もう名古屋も過ぎたでよ。新横浜で買った「権米衛」の塩むすび、唐揚げ、権玉子、いつも駅弁なので今回は趣向を変えてみた。んまかった。
posted at 11:29:12

新幹線車内無線LAN(docomo ‘‘Mzone‘‘)でウェブ初体験中。でもイマイチ遅いな。やっぱ光の方が速い。乗ってるのは「のぞみ」だけど。
posted at 11:35:36
京都なう。まずまず晴れてはってよろしおすなう。
posted at 11:55:31

わては新大阪なう、やんけ。
posted at 12:08:34

下関なう。駅前ロッテリアでMzoneできるのを確認。よしよし。さてさて。
posted at 15:22:59

2011年08月26日(金)
下関駅前ロッテリアなう。昨日は終日、父の相続関連諸々手続きに役所、銀行、関係機関、あちらこちらへ。本日は朝から兄とともに主なき実家のメンテナンス関連に従事。今回のミッションはほぼやり遂げた感じ。
posted at 16:15:52

日中は暑いが、朝晩は涼しくなった。きゃっきゃっきゃっきゃっと隣の高校生らしい仲良しカップル、夏休みもそろそろ終わりやねえ。ま、おじさんには関係ないけど、やることはやったんかいのぉ。
posted at 16:28:26

さてとこれから、特養の母を訪ねて三千メートル。
posted at 16:29:58

2011年08月27日(土)
下関は晴れ、わりと涼しい。そろそろ夏も店じまいにかかっているような。実家の雨戸(べニア板が剥げかかっていた)の修復及びニス塗りを朝一に、近所の不動産屋での所用をすまし、ロッテリアなう。これから老人施設の夏祭りということで、母のところへ。
posted at 11:29:18

2011年08月28日(日)
昨日は、母のいる特養や隣接しているケアハウス合同の夏祭りに母を連れて参加。ケアハウスの食堂フロアを使って、職員のみなさんによるフード、ドリンク、かき氷などの出店、ゲームコーナー(輪ゴム鉄砲の射的)など文化祭のノリで▶祭りのフィナーレはフロアを周るおみこしと盆踊り。盆踊りは下関オリジンの「平家踊り」というスタイル、子供のころは踊ったもんだ。懐かしうござった。じいちゃん、ばあちゃんたちもそこそこフィーバーしてたな。車いすの母も手だけゆらゆらさせておった。
posted at 10:27:46

下関滞在5日目、6時起床。部屋を掃除し、荷物を整理して実家を後に。バスに乗り、駅前ロッテリアなう。昨日は涼しい風が吹き、そろそろ夏も店じまいかと思っていたら、今日は朝から暑い。閉店セールということか。で、しつこくセールをやる場合もあるな。さてこれから、バック・トゥ・神奈川。
posted at 10:41:20

11時47分小倉発のぞみに乗車、車内販売の博多名物「たかな寿司」というのを購入、巻きずしの海苔の代わりにたかなが巻いてあるもの。中身は玉子焼きとそぼろ、たかなが妙に甘ったるく、酢飯もしゃんとしていなく、なんちゅうか、愚鈍な感じの味でイマイチだったす▶で、あれよあれよでもう名古屋なう、だがや。
posted at 14:49:57

そうか、夏休み最後の日曜日ということでかな、上り新幹線自由席車内はけっこうハゲタカ▶「混んどる」ってことで。。。
posted at 14:59:03

そろそろ新横浜。今回の帰省ミッションも終わり。やれやれ。
posted at 16:06:39

自宅なう。帰省中、Mzoneを使って毎日ノートパソコンでウェブメールをチェックしていたのだが、なぜか肝心の仕事依頼メールが届いていなかった。どうも迷惑メールにフィルタリングされ、削除してしまったようで。先ほど、そのメールを確認、既にプレゼン締め切りは過ぎていた。むむむのむ▶でも、その仕事は僕の苦手なコマーシャル系、受けたとしてもストレスが溜まるかも、というのはイソップの「すっぱいぶどう」。
posted at 18:56:51

2011年8月23日火曜日

WeeklyTwitts 2011 (8.15~8.21)

2011年08月15日(月)
昨夜は飯食って、食後のあんドーナツ食った直後、ナルコレプシー的睡魔に襲われ、そのまま寝ちまっただ(9時過ぎくらいか)。あんドーナツには催眠物質が含まれているのか。眠れないときはあんドーナツ、これオススメ。で、本日7時半起床。爆睡10時間、さすがに寝過ぎで脳がメルト気味。
posted at 08:41:41

「タピオカとこんにゃくで作った種入りスイカ」ジュースというのを買ってみた。飲んでみた。うーん、オススメはしません。「認識票肌よりはずす終戦日ー父の終戦」ブログアップ
posted at 13:33:37

2011年08月16日(火)
エアコン切って窓を開けると、今夜は少し涼しいような。虫の声がよく響く。猛暑日は続いているが、黄昏れていく夏を感じる、晩、晩夏晩。串カツ、サラダ。パルム・チョコレートアイス、んまい。
posted at 00:51:25

昨夜はそこそこ遅く寝たが、8時過ぎには目が覚めた。猛暑酷暑も少しずつ収まりつつような今朝。午後から兄宅に行く予定、父の葬儀の慰労会と今後についての協議とか。
posted at 10:11:35

嫌な夢を見た。ホールのようなところでソロのコンサートをやり始めるのだが、急に頭がまっ白になり、何をどう歌っていいものか、わけがわからなくなって演奏を中断。コンサートの主催者が血相を変えて僕を糾弾する姿を見て、僕は「チケット代は返却します」とマイクを通じて観客に言ったんですね▶夢の中で、「金がないのに、これでけっこうな借金をこさえることになるなあ」と暗澹たる気持ちになったね。肝心なときにウロが来て、事態を台無しにするパターンの夢は時折見る。それは意外に僕の深層心理における一種の破壊願望なのかな、と。でも、やな夢だった。
posted at 10:26:53

2011年08月17日(水)
一昨日>昨日>今日と暑さも徐々に収束していく感あり、8時起床。昨日は兄宅、午後から父亡き後今後の諸々ミーティング。夕刻、兄家族と串カツ屋で揚げ物系を中心にビール。9時過ぎに帰宅、寝オチ。
posted at 09:29:00

ぐらっと来た。震源茨城県南部。ふいに後から「わっ」とされた感じ。んもー。
posted at 09:41:02

つきあげられのも揺さぶられるのもやだねえ。「賢く恐れる」なんて言うけど、未曾有の震災後の余震収束、悪夢の原発事故の中長期的な危惧、はっきりしたことは誰もわからん、と言われりゃ賢くもなれんな。
posted at 12:37:04

2011年08月18日(木)
ドーパミン枯渇につき、たらたらと本を読んで過ごす。オクさん仕事につき冷食炒飯狐食。食後にナイススティックという甘いクリームが入った細長いパンを食べた。これは父の好物だった。
posted at 00:08:29

8時起床。朝からそこそこけっこう暑いな。今日あたりが今夏の暑さの山か。怠け心を暑さのせいにしておくのもそろそろということだな、僕の心のキリギリス。
posted at 09:29:47

夕方になって少し涼しい風が吹く。虫の声も。黄昏れていく夏。父の葬儀以来、父のことを考えることが多くなった。「家系図におけるミステリー」ブログアップ
posted at 19:00:35

2011年08月19日(金)
「浮き沈みしては水母で通しけり」というのは父の句。自分に向けられる祖父の小言をのらりくらりとかわしていた父を思い出す。オクさんが作ってくれた茸丼の具材に汁を足して日本そばの付け麺のタレにして食べた。なんかお米は食べたくなかったので。さて寝るかな。
posted at 00:29:33

8時半起床。そこそこ涼しい朝だが、期待していたよりは涼しくないな。しかし、セミの声は夏バテ気味、いやん晩夏と言っておる。
posted at 10:08:41

一天にわかにかき曇り豪雨襲来予感有り、降らぬ内にと悲しきアディクトは煙草買い、戸外に出でし途端に雨はどしゃっと降り始め、おれの行動見ての意地悪に相違ない。
posted at 11:30:38

2011年08月20日(土)
涼しくて気持ちE、けど夏が終わったみたいD、ちょっと淋Cm。鶏のフリッター、野菜サラダ、豆腐の味噌汁(帰省の際にお土産に買ってきた「彦島味噌」使用、僕にとっては懐かしい味でございました)。
posted at 00:24:49

昨夜は寝ようかなと思いつつ、BSつけたら、ポール・マッカートニーのライブ映像流していて、うーん、ポールはNHK「思い出のメロディー」に出てくる往年の歌謡スターと本質的に変わらんな、つまらんな、と思いつつ、それでもやっぱりビートルズ・エイジの僕はそれなりに見てしまった▶で、その後にキャロル・キングとJTの2007年LAトルバドールでのライブがあって、こちらは半分ウトウトしながらも楽しく見た。同じく過去のヒット曲を聴きながら、こちらは「いろいろあっての今」を感じ、ポールの歌は「思い出のメロディ」、この違いは何かとちょっと考えた。
posted at 10:39:55

そんなわけで、久しぶりに夜更かしし、起床9時。明け方寒くて部屋の窓を全部閉めちゃったよ。なんだかここに書くのもおぞましい夢(スプラッター系ホラーのような)を見て、涼しい涼しい朝ではありますが、気分はあまりよろしくない。
posted at 10:47:02

2011年08月21日(日)
昨夜はノダっち&ちゅう君のライブ見にパラダイス本舗。二部ではキュートなウクレレ女子、なっちゃんも参加、御大洋介さんのギターも加わり、僕もちょこっと歌ったぞい。中央林間の片隅に今宵も音楽の神様が降りてきて、Let the Good Times Roll、楽しい夜を過ごした。
posted at 11:07:49

で、そこそこ飲んで終電帰宅。なんだか涼しすぎてあまりよく眠れなかった。中庸というセンスに欠けた今年の夏。気候ばかりでなく、なにごとも極端に振れがちな世相を感じる。本当のことは白でも黒でもないわけで。今朝は10時起床。
posted at 11:22:39

オクさんがどこぞでもらってきた「韓国海苔チョコレート」。食べない方がいいかもしれない、と思いつつ好奇心に勝てず、食べた。食べない方が良かった。どんな味? 韓国海苔にチョコレートをまぶして食べたような、そのままの味です。
posted at 12:26:32

うん、魚介類とチョコはミスマッチですね。刺身チョコ、昆布チョコ、スルメチョコ、海老風味チョコ、ホタテ風味チョコ、チョコかまぼこ、書いてて気持ち悪くなってきた。
posted at 13:05:34

2011年8月18日木曜日

家系図におけるミステリー


6月の終わり、僕は父が住んでいたケアハウスにしばらく滞在し、ケアハウスの退居手続きを行うとともに、父の部屋に残された品々を整理し、残しておくべきものと判断したものは実家に運び込んだ。ケアハウスの父の部屋は、昨日まで普通に暮らしていた部屋の住人が突然失踪したかの様相で、父が自分の死を予期し、ある程度の整理に及んでいた形跡はなかった。

父は卒寿の祝いのときに言っていたように、「なかなかお迎えが来んからしょうがない」という気持ちで淡々とそこで普通に暮らしていて、突然に近い形で体調の変調があり、それは脳の病であったから、死に行くことの理性的な認識もつかぬまま、あれよあれよとひと月後に亡くなることになった。

そういうこともあってか、父の性格なのか、部屋にあったいくつかの整理箱や書棚の引き出し等に、大切なものも、そうではないものも、わりと一緒くたに保管していた感じがあった。そういう無造作に保管されていたものの中に、和紙に毛筆で書かれた祖父の戸籍謄本と父が書いたものと思われる「家系図」があった。

それらによって、僕は生まれて初めて父方の曾祖父の名前が浅吉という人であったことを知った。曾祖母の名前はアサノ。曾祖父と曾祖母の間には三人の息子がいて、長男は寅吉(父親同様、博徒チックな名前だ)、次男は保太郎、三男が久雄、と順繰りに名前が普通っぽくなっていって、この三男の久雄さんが僕の祖父である。祖父は明治26年の生まれ、昭和55年に88歳で亡くなった。

祖父が四国愛媛の出身であることは知っていたが、戸籍書類によると愛媛県西宇和郡、八幡浜という土地の出身のようだ。四国の上部左に突きだした佐多岬半島の懐あたり、四国の西端に位置し、瀬戸内海を挟んで北方に中国地方、西に九州を臨む土地だ。曾祖父が何を生業にしていたのかわからないが、伊予水軍の流れを汲む海賊系漁師(どんな漁師?)だったのかもしれない。浅吉という名前はどうも堅気には思えないし。

ともあれ、浅吉さんの末っ子三男の久雄爺さんは同じ土地に住む川田ツルキさんという人と結婚することになる。ツルキさんは渡辺利平、ロクという夫婦の三男、渡辺新太郎さん(後に川田鶴蔵という人の養子となり、川田新太郎となる)とタミさんという人の長女で明治26年生まれ、祖父と同い年の嫁さんということになる。

そのツルキさんと久雄爺さんの間に生まれたひとり息子が山下義雄、僕の父というわけだ。しかしツルキさんは僕が生まれるはるか前、父が17歳くらいのころに病気で亡くなる。ツルキさんの享年は46歳。久雄爺さんはツルキさん亡き後、シゲ子さんという後妻をもらい、このシゲ子婆さんが、僕にとっての「ばあちゃん」で、血は繋がっていなくても、穏やかで優しく、いつもニコニコ微笑んでいた「仏様」のようなばあちゃんだった。シゲ子婆さんは久雄爺さんが亡くなって6年後、久雄爺さんと同じ88歳で亡くなった。

子どもの頃、我が家の仏壇には丸髷を結ったいかにも明治女という風情の人の写真と幼い男児の写真があり、「この人たちは誰なん?」という問いに「父ちゃんのお母さんと爺ちゃんと婆ちゃんの子どもよ」と答えてくれたのは母。そのときに初めて「ばあちゃん」は爺さんの後妻であることを知った。

丸髷の人はツルキさん、幼い男児は久雄爺さんと後妻のシゲ子婆さんの子どもの肇さん(僕にとっては、父とかなり年が離れた父の異母弟の叔父)で、食中毒で早逝したらしい。シゲ子婆さんが爺さんと結婚する以前のことはよく知らないが、彼女は久雄爺さんの6つ年下で、後妻として嫁いだときは既に中年期、肇さんは当時としてはかなりの高齢出産で授かった子ども、シゲ子婆さんの悲しみは相当深かったのではないかと想像する。

久雄爺さんは、ツルキさんと結婚すると四国を離れ、福岡の姪浜というところに行き、父はその地で生まれ、昭和の初め、父が小学校に入学する頃に下関に居を構えることになる。祖父の下関での勤務先は地元造船所、退職して地元信用金庫の守衛のようなことをやり、その後お茶の小売業を始める。父は会社員だったが、僕の実家にはお茶の店舗があり、祖父の商売を母が手伝う形で商売はそこそこ繁盛したようだ。

祖父が亡くなり、父は会社員を退職した時点で、お茶の小売業に従事したが、万事器用でやり手だった祖父と違い、父は商売の才覚はなく、その内商売は止め、油絵、俳句、グランドゴルフ、母との旅行等、趣味悠々の老後の生活に入るというわけだ。

ところで、久雄爺さんとツルキさんの結婚は、いわゆる格差婚であったらしく、「庄屋の娘、あるいは網元の娘」ツルキさんと恋仲になった「小作農、あるいは貧しい漁師」の倅(かどうだか知らないが)久雄爺さんは、半ば駆け落ち同然で故郷の四国愛媛から遁走したという話(おそらく母から聞いた話だろうが)を子どもの頃、聞いた記憶がある。明治版「ロミオとジュリエット」。

先日、兄の家で久雄爺さんの戸籍を確認していたら、父が出生(大正10年3月)してから、戸籍上で認知する(昭和2年)まで7年ほどの空白があることに気がついた。この空白期は久雄爺さんがツルキさんと結婚してすぐに四国を出て、福岡、下関と転々とした時期に符合するところがある。ツルキさんの実家である川田家は久雄爺さんとツルキさんの結婚をすぐには認めなかったのかもしれない。ごく普通の結婚ではなかったかもしれない印象はある。

現在、ツルキさんの遺骨は我が家の先祖代々の墓に眠っているが、その墓に父の実母であるツルキさんの遺骨が納骨されたのは父が老境にあった比較的最近のこと。ツルキさんの縁者が祖父の再婚にこだわって、なかなか祖父に遺骨を渡そうとしなかったことは、父の自費出版本に少し書かれている。実母の遺骨をようやく先祖代々の墓に眠らせたのは父の手によるものだった。そもそもツルキさんが亡くなったとき、久雄爺さんがなぜその遺骨をツルキさんの縁者の元に返したのか、久雄爺さんがツルキさんの親族になんらかの負い目があったと考えるのが自然だ。

しかし、何よりものミステリーは、これは僕自身が以前から漠然と思っていたことだが、祖父と父とは外見、性格、何からなにまで似ていないということ。祖父は小男で痩躯、父はどちらかと言えば現在の僕のようなややぽっちゃり型、祖父は父のように禿げることもなく、のんびり型の父の性格に比べ短気な気質で、不器用だった父に比べ、大工仕事、盆栽と手先が器用。自転車もよく乗れなかった運動音痴の父に比べ、祖父はバイクが乗れることが条件だった就職先で、初めてなのに見事にバイクを乗りこなした(死ぬ直前まで90ccのカブを乗り回していた)という逸話があった。父の実母のツルキさんの写真は2枚ほど残っており、一見して父の面影を感じる。

で、僕と兄は父に似ているところが当然あり、父の息子であることは疑いようもないが、二人とも祖父には似ているところが、少なくとも外見上ほとんどないように思う。僕はそこそこ小器用なところがあって、父は不器用な方だったのでそこは祖父に似たかもと思っていたが、母も手先が器用なところがあった。

祖父は、当時としては義務教育ではない高等小学校まで行ったことが自慢で、頭は良い人だったと思うが、教養があるような人ではなかった。ひとり息子の父を田舎に住みながら東京の大学まで出したことで、父を大切に育てたということは言えるが、僕の記憶では、祖父は大人しい父を相手にしょっちゅう小言を言い、時には父ののらりくらりに腹を立て、たばこ盆を投げつけるなどの気性の荒さを見せていた。孫たちにはごく優しい祖父であったが、父に対しては最後まで厳しかったような。

そんな祖父が亡くなってから、父は生き生きと生活を楽しむようになったフシがある。父は祖父の本当の子どもなのか、もしそうでないとしたら、背後にどんなドラマ(ツルキさんが何らかの事情で私生児としての父を身ごもり、そのツルキさんの子を7年の時を経て父親として認知した祖父、とか)があったのか、そのあたりが我が家系における目下の最大のミステリーということ。

もはや父にそのあたりのことを聞くことはできないが、母はどこまで知っているのか、その母もだいぶ認知の傾向があるから、よくわからなくなっているかもしれない。まあ、こういうことはよくわからないままでいいようにも思う。


画像左:写真の裏に昭和19年2月10日撮影とある。祖父52歳の頃の写真。なかなかダンディーな祖父の姿だが、見れば見るほど、父にも兄にも僕にも似ていないように思う。
画像右上:父の実母のツルキさん。口元は父に似ている。
画像右下:祖父と後妻のシゲ子婆さんとの結婚写真。子どもの頃、この写真を見つけて、「ばあちゃん」に見せたら恥ずかしそうに笑うばかりだった。かわいいばあちゃんだった。

2011年8月17日水曜日

WeeklyTwitts 2011 (8.8~8.14)

2011年08月08日(月)
夕刻、郷里の特養にいる母に電話。声音は意外にしっかりしていたが、息子たちが帰ってしまった今、淋しい思いを強めていることだろう。これから母にしてあげられること、してあげねばならぬことを考えることが夏休みの宿題。鶏のフリッター、カボチャコロッケ、海草サラダ。
posted at 00:33:05

8時起床。あちらも暑かったが、こちらも朝から暑いな。非日常の時空間から帰還し、ようやく日常的フィーリングが戻ってきた感じ。さてさてさてさてさてさて、っと。
posted at 10:23:45

2011年08月09日(火)
昨夜は10時過ぎには寝オチ、爆睡8時起床。しかし、ここ数日よく眠れること。お題を与えられ瞬時に見事な(と思われる)俳句を作った夢を見たが、その俳句を何一つ覚えていない。昨夜の夕食メニューはサバの塩焼き、納豆、ゴーヤチャンプルー。今日も暑い一日になりそうだ。
posted at 09:19:35

僕はミルキーが大好きなのだが、夏場は溶けてしまうので避けていた。バッグの中に入れっぱなしで大変な事態になったことが再三ある。で、昨日、ダイソーで見つけたのが「しおミルキー」。うんまいよ。
posted at 19:26:20

2011年08月10日(水)
夜になっても暑い。昨夜はたまらずエアコンをつけて寝たが、今夜は一台の扇風機を部屋の北側から、もう一台の扇風機を西側から回し、その風の交差するところに僕はいる。二台扇風機を回してもエアコンよりは節電になるよね、かな? 鶏の唐揚げ、野菜サラダ、玉子かけご飯。
posted at 00:46:43

8時起床。朝っぱらからお天道さんぎんぎんぎらぎらと絶好調、だねえ。節電の夏日本の夏
posted at 10:10:36

♪今年の暑さは画期的なもの、毎日酷暑、猛暑、炎暑、炎の世界〜 さすがにエアコンの効いた部屋でぐーたらしておる。
posted at 15:36:20

2011年08月11日(木)
昨夜は寝オチ。結局エアコンつけっぱで7時起床。起床後エアコンは消したが既にじりじりと暑い。今日は昨日よりも暑くなると朝のラジオ。海風は高層ビルに遮られ、夥しい数のエアコンは熱風を戸外にまき散らし、容赦なきアスファルトの照り返し、ヒートアイランド首都は悲しき熱帯。
posted at 09:18:08

……たまらんな。おーい、エアコン、つけちょくれ。
posted at 09:19:48

炎天下で仕事をせねばならない方々、ホントにご苦労様。申し訳ないが、僕はエアコンつけた部屋でタラタラしております。
posted at 13:39:32

2011年08月12日(金)
昨夜も寝オチ、8時起床。今日もお天道様絶好調。だいぶガタが来た脳のメルトダウンを防ぐため、すまんがエアコン・オン。画像は「泳ぐ猫」、ターキッシュ・ヴァン。猫と一緒に泳いでみたい。
posted at 10:35:40

昨夜の夕食メニューは、メンチカツ、コールスロー。一昨夜は麻婆豆腐と、……なんだっけ? 忘れちった。
posted at 10:41:12

おそらく今後、以下の言葉はネット・メディア等で頻繁に使用されると思われるので、思いついたから先に言ってしまおう。(とりあえず)「野田でいいノダ」。「野田がいいノダ」じゃなくてさ。
posted at 10:49:26

住居家主の意向で、業者来訪、なんだか知らんが、NHK始め各BS放送、一部ケーブル放送の受信ができるようになった。もちろん無料で。しかし、震災以来、僕はちょっとマスメディア不信、特にテレビメディアはどいつもこいつもという感を抱いており、BSが見れて嬉しいという感じは特にないけれど▶まあ、しかしテレビは「貧者の娯楽」という側面はある。エラソにテレビメディアについて文句を言ったが、僕はくだらない番組、けっこう見たりします。とんねるずの「きたなシュラン」とか。昨夜の放送で見た横浜の中華屋のあんかけ天津麺、うまそうであった。
posted at 13:53:06

民放の軽佻浮薄はしょうがない。マジョリティはそういうのけっこう好きだから。嫌だったら見なきゃいい。許容できないのはNHK、言い尽くされてきたことだろうけど、受信料をあまねく取るところから、今の時代、既に大きな矛盾をはらんでいると思う。NHKはいい番組作って当たり前。
posted at 14:12:44

夜になっても蒸し暑いなあ。かつて暮らしたLAの夏は日中はめちゃくちゃ暑かったけれど、夜はとても涼しかった。それであれば夏は一番好きな季節になるのだが。
posted at 19:07:51

2011年08月13日(土)
昨夜もフルダチ君の「何様声」を聞きながら寝オチ。エアコンつけっぱ(ギルティちょっと感じるけどさ、おれ、暑がりなもんで)で8時半起床。今朝はいくぶん涼しい感じか。
posted at 09:58:07

「泥のように眠る」、英語的には「丸太のように眠る」(ビートルズ「ハードデイズ・ナイト」ね)という表現があるが、エアコンが効いた「霊安室の遺体のように眠る」と言えばあまりにも直接的な比喩だが、そんな感じ。猫並な睡眠を貪る日々▶グータラしてるわりには、このところまあよく眠れること。親父の葬儀帰省はむしろ楽しい家族旅行のような印象をもって終わったが、それなりの疲れはあったのだろう。
posted at 10:07:04

ああ、夢を見た。友人Yさんのお宅に訪問、「珍しい生き物を飼ってるんだ」と言われ、見せられたのが、まっ白な大きな猫くらいのサイズの爬虫類、とかげの類。僕はびびってその動物から逃げ回ったが、Yさんは面白がってわざとその動物を僕のそばに。よく見たら、毛を刈り込んだ白い大きな猫だった。
posted at 10:11:50

タバコを買いに行こうとしたら、いつもの場所に財布がないのに気がついた。昨日、近所のコンビニで買い物をして以来、財布を持ち歩いていなかったから、財布をそのコンビニに置き忘れた(僕はこれをちょくちょくやるのです)と、ほぼ100パーの確信を持ってそのコンビニに行ったが財布はなかった▶ほぼ100パーの確信は音を立てて崩れ、心配してくれたそのコンビニのおばさんに「もう一度、家の中を探してみます」と言い残し、家に戻りあちこち探し、ほぼ0パーの確信(ここには入れんだろ)で玄関脇の引き出しを開けたら、あった。そこに入れた記憶は皆無だが、とにかくそこに財布はあった▶僕にしては珍しくキャッシュもそこそこ入っており、各種カード類も入っている。何度か財布をなくしたとき、カード等の紛失手続きに大変苦労したので、一時は暗澹たる気持ちになったが、非常にほっとした。コンビニに財布が見つかったことを電話して、一件落着。
posted at 15:02:24

思い出したのが、父が身体の変調を来す直前の今春、父の卒寿の祝いのとき、ケアハウスの部屋で、父が「財布をどこへやったかいのお」と自分の財布を探していたこと。一緒に探してあげたら、引き出しの中にそれはあった。「ここにあるやないの」と言えば、父は「そんなとこに入れちょったか」と笑った▶そのときに、父が冷蔵庫の中に僕があげた「足袋ソックス」を入れていたこともあった。「なんで、こんなもん入れたんかねえ?」と言った父は既に病魔に冒されはじめていたのだろう。僕も気をつけねば、脳の健康。
posted at 15:14:42

父のことを書くことで供養にしようと思いつつ、迎え盆。
posted at 16:38:27

今日、オクさんは外出していたのだが、先ほど帰ってきて、僕の財布を、普段そんなところには入れない引き出しに入れたのは彼女の仕業だとわかった。いつも玄関脇の棚にぽんと置いている財布、昨日ケーブルテレビ業者が来たとき、咄嗟に手近の引き出しに入れたとのこと▶そして、それを僕に告げることを忘れていたと。今日の「財布一時紛失事件」、僕の健忘症のせいではなかった。最近、衰えを痛感する我が脳、いよいよマジにやばくなったと思ったが少し救われた。しかし、頼むよ、オクさん。
posted at 19:46:45

2011年08月14日(日)
このところ11時くらいになると泥のような睡魔が襲ってきたが、今夜は珍しく眠れない。眠れない夜は眠らないでいるのが妥当。
posted at 01:24:41

「廃船は航くかたちして盆の月」というのは父の句。海辺にうち捨てられた廃船とその上にかかるお盆の月という情景を詠んだものか。よくわからんが父は詩人でございました。今夜はフルムーンお盆となった。ブリの照り焼き、冷や奴、納豆。
posted at 02:12:42

昨夜寝たのは2時半頃。しかし8時には目が覚めた。今日もお天道様はハイテンション気味に活動か。キッスの曲でHotter Than Hellというのがあるけど、僕のHN、堀田ヘル?はそれからじゃなく、What the hell? (なんてこったい?)から。だから?をつけているわけで。
posted at 09:47:19

午後、図書館。帰省する前、借りていた本は全部返却していたので、あらたに10冊ほど借りる。図書館は貧者のオアシス。貧者っていうのは何だな、税金が有効に使われていると実感する数少ない施設のひとつ。

2011年8月15日月曜日

認識票肌よりはずす終戦日ー父の終戦


認識票肌よりはずす終戦日

父が亡くなる前、5年ほど前に自費出版した『波』という書名の句文集に収められた俳句のひとつ。大学を卒業するとほぼ同時(昭和17年)に軍隊に招集、中支(華中)方面に派遣され、昭和21年6月に復員するまでの4年間の兵役経験がある父にして、終戦日について直接的に詠んだ句はこれひとつしかない。

認識票とは兵士が肌につけるIDプレートのことであろうが、終戦に至り、これを肌から外したという、ごく素っ気ない句だ。やや難解な熟語を使うことが多い父の句にしてはあまりにもシンプルな句。

「肌より外す」という言葉に引っかかって、少し調べてみたら、旧陸軍の認識票というのは、「小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通して胴体にたすき掛けにして装着していた」(認識票 - Wikipedia)とのこと。兵士となれば「肌身離さず」装着することを義務づけられたのだろう。それを「肌よりはずす」ことの開放感はいかばかりであっただろうか。

父は戦争のことについて多くを語らなかった。もっとも、自分のことについてもあまり多くを語らない人だったが、子どもの頃、何かの話の流れで「父ちゃんがいた部隊の部隊長は、敵が来ると『みんな逃げろ! 逃げろ!』と退却命令を出すようなええ人やった」と笑いながら話してくれたことがあった。子供心に父は(穏やかな)反戦の人だったのかな、と思ったように記憶する。

あと、僕がビートルズに夢中になっていた中学生の頃、I Want To Hold Your Handを、♪アイワナホージューヘ〜ン、と歌っていたら、父が「哀れ補充兵、かあ」と笑いながら僕を茶化したことがあった。その時はいささかムッとしたが、ほぼ学徒動員だった父は世間知らずの補充兵であり、古参兵あたりの目の敵にされたのではないかと想像する。

父は復員後、住友生命(大阪本社)に入社が決まっていたが、当時の大阪はまさに焼け跡闇市の戦後混乱期で、その混乱の有様を見て、父は大阪に住むことを嫌い、住友生命を依願退職、故郷の下関の企業に就職することになる。そして、その企業は父が働き盛りのときに倒産し、父は中年期に再就職しなければならなかった。

これについては、母が「父ちゃんが住友に勤めていればもっとお金持ちになっていたかもしれん」と少し悔やんでいたことを思い出す。そうであれば、僕も芦屋あたりに居を構える「ええとこのボン」になっていたかもしれない。もっとも、父がそうしていたら、下関に生まれ育った母との結婚もなかった可能性が高く、僕は(少なくともこの世界での僕)存在していなかったであろう。

こうした父の歴史を正確に知ったのは、父が遺した句文集を読んでからのことで、つい最近のことだ。この本には自選俳句といくつかのエッセイが収められているが、大学時代の楽しい思い出は書かれてあっても、兵役に取られたことや戦争に関するエッセイは一切書かれていない。

派兵論梅雨のこの路地抜けられる

というのは、(穏やかな)反戦論者であったと思われる父の句。イラク戦争の折、右よりの政治家が展開した「派兵論」についての父の見解が示されていると僕は感じた。硬直した議論の衝突より、穏便に「抜けられる」方策を考えるというのが父なりの「反戦思想」だろうか。

父の句文集の発行日は平成18年の今日、8月15日となっていた。


画像左:父の旧制中学(下関中学=現下関西高、中退したが僕も同校に在籍した)時代の写真
画像中:父の東京商科大学(現一橋大学)時代の写真
画像右:父が遺した句文集『波』表紙

2011年8月14日日曜日

父の葬儀帰省後記 ーその3ー


2011年08月05日(金)
実家の隣、築40年木造二階建て三戸という父所有のアパートの住人の方々に、父の訃報を伝え、今後のことなどをお知らせする。父は家賃の取り立てなども鷹揚になりがちだったようで、結果、家賃を払えなかったり、支払いが滞ったりするような、どちらかというと社会の片隅でひっそり生きるような店子が集まった。

父の容態が悪くなった時点で、アパートは今後管理していくことが難しいことと、建物の老朽化もあり、兄と相談し、申し訳ないが、住人の方々には近いうちにアパートを立ち退いて頂くようお願いしていた。こちらとしてはいずれ建物を解体し更地にする予定。こういう交渉事は気を遣う。

午後に墓石の業者と墓場の駐車場で落ち合い、父の納骨に間に合うよう墓碑の彫刻、骨壺を乗せる台のようなものについての検討、見積もりをお願いする。墓碑に刻まれる享年は数え年となるので、父の場合は享年91歳となる。祖父が88、祖母も88。卒寿の祝いのとき、父は「(自分は)88までは生きるやろと思うとったが、ぼんやりとしていたら90になってしもうた。なかなかお迎えが来んから仕方ない」と言っていた。

実家から、アパートの件でお世話になっている不動産屋に立ちより挨拶、その足で母のいる特養に向かう。母は父の臨終、通夜、葬儀、前日の伯母の訪問などの目まぐるしい出来事を体験し終え、少し放心した感じだった。

兄が持ってきたのか、ベッド脇に置かれた封筒に父の生前の写真がたくさん入っていて、それを母に見せると、母は一枚一枚丹念に時間をかけて見ていた。句会の集まりなどの集合写真では、母は僕に「父ちゃんはどこにおるん?」と聞くので、「ここにおるねえ」と写真の中の父を指させば、母は父の姿を指でとんとんと叩きながら「父ちゃん、あなた」と呟いた。

母と別れ、特養があるバス停から下関駅まで向かい、オクさんと駅構内の食堂でビールを飲みながら皿うどんを食べた。九州の名物、ちゃんぽん、皿うどんは下関でもポピュラーな食べ物。

その後唐戸へ出て、海響館(しものせき水族館)へ。子どもの頃は何度も行った旧水族館が近年、新しく改修されているのは知っていたが、中に入るのは今回初めて。夏の間は「夜の水族館」という趣向で夜間も開館しており、夜のイルカショーや暗い水槽を赤い光の懐中電灯をかざしながら魚の夜の生態を見たりと、なかなか楽しかった。下関と言えばフグということもあり、各種様々なフグの展示は面白かった。フグは魚の中でも癒し系の形態、胸びれを小刻みに動かしながら泳ぐさまもかわいい。

夜も更けかかった頃、実家に戻り、シャワーを浴び、就寝。帰省中、ずっと晴天夏日が続いていたが、夜に少しお湿りがあった。

2011年08月06日(土)
やや遅めにゆっくりと起床後、実家にあるものを少し確認、たらたらと午前中は過ごし、近所のコンビニからトランク一個分を宅配依頼。2時過ぎの新幹線でバックトゥ神奈川。

地図好きのオクさんは地図帳を片手に熱心に車外の風景を見ていた。車内で駅弁を食べ、ビールを飲み、ちょっとウトウトしたらあっという間に新横浜着。夜8時前にはホームタウンに到着。駅前プロムナードでは盆踊り大会で賑わっていた。


画像左は父と母が結婚した昭和22年(1947年)に撮影されたもの。そして右側はその62年後、一昨年の父の還暦(2009年)祝いの時に撮影されたもの。父と母は64年の間、共に暮らしたことになる。右の写真は額に収め、特養の母の部屋に飾った。

YouTube動画はオクさんと見たイルカショー&泳ぐフグ、見つめるフグ@夜の下関「海響館」

2011年8月13日土曜日

父の葬儀帰省後記 ーその2ー


2011年08月04日(木)
午前中、89歳になる母の姉(僕の伯母)と彼女の娘(僕の従姉のYちゃん)が特養に母を訪ねてきた。父の葬儀の前、母は「姉ちゃんに会いたいよ」と言っていたが、伯母はだいぶ前から車椅子生活者で、そのため父の葬儀には参列できなかった。

伯母とは母が元気な頃(十年ほど前に帰省した際)、母と一緒に家を訪ね、長いこと話をしたことがあり、僕もそれ以来の再会であったが、言葉や表情は母よりずっとしっかりとしていた。母も伯母も身体が不自由になり、なかなか簡単に会うことができなくなっていたことから、随分久しぶりの対面となったようだ。会った瞬間に互いに手を取り合い、老姉妹の感激のご対面の体となった。

来年、伯母は90、母は88になるので、伯母の卒寿、母の米寿の祝いを、近親者を集めて同時にケアハウスのゲストルームを利用してやろうという話になった。父の米寿、卒寿を皆で祝ったように。是非、実現させたいと思う。

伯母と従姉のYちゃんと別れ、しばらくして、兄夫婦ともお別れ。僕とオクさんは、やり残した手続き関連を行うことと、せっかくだから少しは下関観光もしようということで滞在を少し延ばすことに。

午後、ケアハウスから歩いていけるフグの水揚げ港(全国のフグの8割を水揚げする)として有名な南風泊(はえどまり)市場、竹の子島という小さな島をオクさんと散策。真夏の太陽が照りつける中、ほとんど人気がなく、深い午睡の中にあるような地域を二人で歩いた。

竹の子島小観光から戻り、母に今日の別れを告げ、特養を出てバス停に向かうところで、母の部屋に帽子を忘れたことに気づき引き返し、再び戸外に出たところで、母宛の速達書留を配達して来た郵便配達人と遭遇、それは母に関する手続き上、大事な書類で、それをその場で受け取ったことで明日やるべき仕事が減った。帽子を忘れ、引き返さなかったら郵便配達人とは遭遇しなかった。これもまた父の計らいであると確信。

そもそも、このところ仕事が暇な僕は良いとして、兄も兄嫁も、僕のオクさんも、ちょうど仕事の区切りが良いときに父は亡くなった。僕にしてもアメリカに住む旧友が僕を訪ねてきて、僕の家に二泊し、旧交を温め別れた直後に父の危篤を聞かされたわけで。こんなに他者にとってグッド・タイミングを見計らった死に方もあまりないのではないか。

そして、そもそも、僕は8月始めに父を訪ね介護する予定だった。それは兄夫婦がその時期に韓国に1週間ほど旅行に行く予定があり、もし自分が日本にいないときに父に急変があれば、という不安から兄が僕に望んだことだった。

結局、兄は韓国行きの直前、父の危篤の報を受け、韓国行きをキャンセルし、父の葬儀の喪主を務めることになったが、もし、兄が韓国に行き、僕が父の許を訪れた直後に父の臨終に際したとしたら、僕は当面ひとりで葬儀に際する諸々をこなせばならず、それは大変なことだったろう。兄にしても近い韓国とは言え、国内にいるようにすぐに駆けつけることはできず、歯がゆい思いをしたことだろう。

父が「わしが死んだら、成ちゃんひとりではたいへんやろう」(あるいは、「成司ひとりでは、正直頼りない」)という心遣いをしてくれたとしか思えない。僕に対してはごく優しかった父であったが、万事信頼していたのは兄の方だったと思う。

いずれにせよ、父の臨終から葬儀にかけて、あらゆることがスムーズにいったことは、すべて父の計らい、周囲に対する心遣いであったと今さらに思う。僕は信心深くもなく、迷信深くもないが、死を目前とし、死していく人間の、遺していく者たちへの「見守りパワー」というものを感じた。ホントに「父ちゃん、ありがとね」だ。

夕刻、母宛の書類を持って、市役所支所に母関連の書類を受取りに行き、オクさんと実家へ。実家近くのスーパーで買い物。オクさんにとっては、関東ではあまり見かけないローカルな食品群が珍しいようで、「彦島豆腐」(豆腐好きのオクさんが「美味しい!」とお墨付き)、丸天(オクさん評価五つ星)、キムチ(関東のものより浅漬け風、これもオクさん五つ星)、「ひらそ」(「ひらまさ」とも、下関ではポピュラーな刺身、味はブリをやや淡泊にした感じ、安くて旨い!)の刺身、鯨カツ(普通に売ってます)等を買い込み、ビール飲みつつ、二人で実家で夕食。

実家にオクさんと二人でいると、なんだか「嫁」に来てもらったような感じがして(ま、嫁には違いないけど)、結婚35年目であるが、少し奇妙なくすぐったいような気持ちがした。そこそこ飲んでほろ酔いで就寝。よく眠れた。


画像上:互いに車椅子の母(右)と伯母の対面。母はすぐに泣き出してしまったが、伯母はにこにこと母に微笑みかけた。いくら年を取っても姉と妹の関係。
画像中:南風泊港の一隅。真夏の午後の強い陽射しの中で港は午睡のひととき、ひとっこひとり居らず、ちょっとシュールな光景だった。
画像下:竹の子島に渡る橋の上からの竹の子島風景。ずっと向こうにわずかに見える山並みは北九州。夏の陽射しにきらめく入り江は、現世を離れた涅槃の光景のようにも思えた。

2011年8月12日金曜日

父の葬儀帰省後記 ーその1ー


2011年08月03日(水)
起床後、全員で我が家先祖代々の墓に行く。墓地は実家から歩いて10分もかからないところにあるが、炎天下に急坂を上らねばならず汗がどっと出る。実家は、父と母が暮らしたケアハウス、現在母が暮らす特養がある場所に比べ、駅方面に向かうバス(バス停、コンビニ、スーパーも至近)も頻繁にあり、先祖代々の墓も至近という便利な場所ではある。

先祖代々の墓には、僕の祖父、祖母、死別した父の実母(祖母は後妻)、祖父と祖母の子ども(父の腹違いの弟、幼少で病死)のお骨が納められている。僕はこの歳まで、はなはだ無信心に生きてきて、まめに墓参りなどしてこなかったが、それはあまりいいことではなかったかもしれないと少し反省した。

その後、父の菩提寺であるお寺さんへ遺骨と位牌を納めに行く。四十九日、納骨まで、誰もいない実家の仏壇に遺骨を置いておくのは気がひけ、菩提寺で預かっていただくことにした。

親子の住職と面談し、御布施を渡す。話し好きの息子と同様、話し好きの老和尚。辛気くさいことは一切話さず、ごくくだけた世間話に終始、父の死が「天寿」であったことにもよるだろう。どちらかと言えば多くを語らなかった父に、この点では似なかった僕はよく「語る人」となったが、それは母に似たか。

今回、父の葬儀内容については兄との異論はなく、常識的な範囲で簡素を旨に執り行い、結果的に聞かれる相場より費用は抑える形になったが、それでも御布施を含め、なにもかもひっくるめるとかなりの金額になった。葬儀の形は今後変わっていくと思われるが、正直、ちょっとお金がかかりすぎるのではないかという思いがする。ごく普通に何百万というのはね。

僕が死んだら、葬儀は不必要、法的な問題はあるが、できれば海に散骨してもらい、墓もいりません。近しい人に時々、思い出していただければそれでけっこう。だんだん忘れられていって、それでけっこう。♪おいら、死んだら風になるよ〜、というのは大昔出した僕のレコードの中の歌の一節(「千の風になって」よりだいぶ前に作った歌だよ)。そんな感じで。

菩提寺を後にしたところで、兄の次男とお別れ。下関の唐戸というところにある市役所内食堂で昼食、うどん定食を食べた。ちょっと忘れたけど「タベテミレーヤ、オイシカローヤ」とかいう下関方言をもじったイタリアン・メニューがあったのは脱力した。

さて、それから父の死に際しての諸々の手続きにかかった。こうしたことをとんとんとやっていくのは僕の性格がなせる技ではなく、兄の性格。彼は何事もきっちりとしていて事細かく、僕の大ざっぱな性格とは大違い。だから、こうしたことはすべて兄の指令で動くわけで。

面倒なのが、既に認知気味な母に代わって諸々の手続きをすること。母は要介護度4、かろうじて自分の名前は書けるが、それ以外の書類手続きに関することはほとんど何もできない。役所に諸々の母に関する書類を申請する場合、母の代理人として申請せねばならず、これがなかなか大変。ただでさえ、役所の手続きというのは理不尽に面倒なところがあるのだが。

兄からウィンドウズのノートパソコンを借りたので、無線LANサービスのある唐戸のホテルでメールチェック。こういうことは初体験、便利な世の中になったもんじゃい。携帯も持てば便利さを痛感する。もっともこういう状況だからなのだけど。

葬儀会館に行き、葬儀費用の支払いを済ませる。担当した女性職員に「葬儀のときの故人へのお別れの言葉には感動しました」と言われた。僕の「父ちゃん、聞こえるかね?」は周囲にも好評だったようだ。お世辞でも嬉しかった。

市役所の支所へ出向き、代理人として母に必要な書類の手続きを行う。その後、再度実家へ。実家のそばにいかにもひなびた食堂があって、そこは僕が子ども時代からあるところなのだが、今まで一度も入ったことななかった。兄たちと入ってみることに。

そこで僕はカツ丼を食べたが、「つゆだく」のカツ丼で、牛丼ならまだしも、カツ丼の「つゆだく」はあまりいただけない。と、店を出て言ったら、兄が「下関では、カツ丼や親子丼はごはんにたっぷり汁がかかっているのが普通」と言われた。そうなのか、知らなかった。下関については知らないことがまだまだ多い。

食事の後、父と母が住んだケアハウスに向かう。この日はそのケアハウスのゲストルームに宿泊することになっていた。二年前の父の米寿、今年春の父の卒寿のときも利用した海に面したリゾートホテルのようなゲストルーム。その建物に隣接してあるのが、母が今住む特別養護老人ホーム。

その特養に母を訪ねたとき、母の弟(僕の叔父)のMさん夫婦が来ていた。父亡き後、「わしがこれからちょくちょく来るから、安心してくれ」と叔父は言ってくれた。叔父は母より6歳くらい年下で、80歳を少し過ぎたところだが、まだまだかくしゃくとしていて、自分の車を運転して北九州から来てくれた。母は三人姉弟の真ん中、弟である叔父に子どもの頃から優しく接していたらしい。

叔父夫婦を見送り、兄夫婦、オクさんとでケアハウスのゲストルーム泊。波の音を聴きながら、この日も夢も見ず、ぐっすりと眠れた。


画像上左:先祖代々の墓がある墓場にすっくと咲いていた、これは百日紅か。ピーカンの夏空をバックに濃いピンクが鮮やかだった。お盆も近くなれば死者も色めき出す。
画像上右:菩提寺の石段を父の遺骨を抱えて上る兄。
画像下:市役所の支所の前にあった僕の生地、彦島の地図。彦島のことは以前にも日記に書いたことがあるが、島の形がちょっと耳が小さめなミッキーマウスに似ていると思いません?

2011年8月11日木曜日

父の臨終〜葬儀顛末日記 ーその3ー


2011年08月01日(月)
7時頃起床。晴天夏日。僕のオクさんを加え、6人で会館近くのファミレスで朝食。甥がロコモコを注文したので僕もそれにしようと言ったら、兄が呆れたように「おまえはいつまでたっても若者メニューだな」と。そう言う兄は、いわゆる日本の朝定食系を注文。食べ物の好みが若い頃から変わってきたという感じはない。僕はいまだにポテチとコーラが大好きだったりするし。

葬儀会場入り口に「メモリアルコーナー」というのを設置してもらえるということで、実家に行き、父にまつわる品々(自費出版した句集、俳句の賞盾、俳句短冊、古い写真、母を描いた油絵等、帽子、愛用のステッキ、得意だったグラウンドゴルフのクラブ、等)を会館に持っていく。それらの品々を参列者に見てもらうためメモリアルコーナーに設置、レイアウトした。僕が死んだときは当然ここに愛用のウクレレが置かれる感じか。ギターだとややでかすぎるが、ウクレレは棺にも楽に入るので、天国に持っていくのに便利だな。

午後、早めにオクさんとタクシーで母のいる特養へ向かう。母に、以前あつらえ、今回初めて着ることになった黒のワンピース、ジャケット付の喪服を着せる。母はすでに自分ひとりで衣服を着ることはできない。黒の短靴も用意していたが、靴が小さく(老齢の母の足にむくみがあるのか)履かせるのが難儀だった。母が持っていた黒真珠のネックレスもつけてあげた。

前夜はほとんど眠れなかったと言う母、出発前、特養の職員に血圧、脈拍を計ってもらったが、血圧は高め、脈拍もいくぶん早かった。父の死で精神的に一番ダメージを受けているのは、父と長年連れ添い、頼り切っていた母だろう。

夕刻、特養に予約していた介護タクシーが来たが、小型だったため母とオクさんを乗せ、僕はバスで葬儀会館に向かった。会館に着き、会館の服泊施設のシャワーをさっと浴び、わさわさと式服に着替え、黒ネクタイを締め、葬儀会場に行ったところで、駆けつけてくれた母方の親戚、僕の叔父、叔母、いとこたちと会う。いとこたちと会うのは実に祖父の葬儀以来、30年振りくらい。

午後6時、通夜がスタート。シンプルながらなかなか素敵な祭壇だった。父の遺影はあらかじめ兄と相談し、父が米寿の時の帽子を被った写真を、僕がインクジェットの画材用紙に半切りサイズにプリントアウトしたものを使用した。

僧侶の読経の後、参列者への挨拶は喪主である兄が行った。通夜終了後、通夜ぶるまいの席で久しぶりに会ったRちゃん、S君のいとこたちと歓談。お互い年を取ったが、話し始めれば一緒によく遊んだ子どもの頃の話しぶりになる。懐かしいことしきり。

オクさんに介護タクシーで母を特養に連れ帰ってもらい、僕は親戚のいとこたちの中で一番年下だったS君(二児の父親で大阪に住み、今は立派な会社の取締役)と子どもの頃の話に花が咲き、意気投合、会館の部屋で差し向かい午前2時過ぎまでしこたま飲んだ。

2011年08月02日(火)
葬儀当日。さすがに前夜の深酒が残り、やや辛い起床となったが、体調はまったく問題なく、心配していた腰の調子も問題ない。これも父のご加護か。

参列者全員で会館が用意した「おとき」を頂いた後、タクシーでオクさんと母のいる特養へ。職員に既に喪服を着せてもらっていた母は、昨夜はそこそこ眠れたと言う。血圧も正常。

9時過ぎ、今度は大型の介護タクシーが迎えに来て、オクさんと二人で母と同乗、会館へ向かう。母は悲しげな表情をしていたが、昨日よりはだいぶ落ち着いた感じだった。空はピーカンの夏空、帰省して以来晴天夏日が続く。

会館に兄の長男の嫁さん(5月初めに女の子を出産。このときくらいから父は身体に変調を来し始めたが、まだ意識はしっかりしていた。父からすればひ孫にあたる赤ちゃんの誕生を喜んだことだろう)が駆けつけてきた。

10時から葬儀、曹洞宗住職父子が読経。事前に、父へのお別れの言葉を僕が担当することを告げられていたので、僧侶の読経中、さて何を父に語りかけるか、考えていた。耳が遠かった父だったので、とにかく大きな声で語りかけようと思った。

父の遺影を前に、「父ちゃん、聞こえるかね? 父ちゃんは耳が遠かったけえ、大きな声で話します」と、おそらく会場中に響き渡る声で語り始めたと思う。僕も歌うたいの端くれ、大きな声を出すのは得意だ。

父には、僕たちを待っていてくれたことに感謝し、おそらく気がかりであろう母のことを、兄とともにしっかり見守っていくことを、生前の父に語りかけるように下関弁丸出しで、それは大きな声で伝えた。泣くまいと思ったが無理だった。

その後、参列者全員で父の棺に花と共に父の思い出の品々を収めた。僕は父の部屋で見つけた使い古された感じのある日本の名歌、歌謡曲の歌本を納めた。父は不器用で楽器はできなかったが、歌を歌うことは大好きだった。その資質は僕が引き継いだ。

出棺となり、兄は位牌、僕は遺影を抱いて、何ともコンテンポラリーな白いリムジン風霊柩車に乗り、会館から実家を周り、火葬場へ。オクさんと甥が母と共に介護タクシーで、他の参列者はマイクロバスで火葬場に向かった。

前日が友引だったこともあって、火葬場は混み合っていた。2時間は待たされたか。父の火葬が終わり、参列者全員で父の骨を拾う。斎場の担当者がまず「胸仏」(胸骨の一部、仏が安座している格好に似ているので「胸仏」と言うが、「のど仏」とは違う。)を拾い、小さな骨壺に納めた。この「胸仏」は曹洞宗の本山、永平寺に納めるのが慣わしと聞いた。

火葬の後、再び会館に戻り、初七日の法要。その後、親族で会食。散会。兄の長男夫婦とはここでお別れ。兄夫婦、兄の次男、オクさんとで実家に。父の遺骨、位牌を実家の仏壇に設置。父と母がケアハウスで暮らしだして、7年間くらい空き家状態だった実家が久しぶりににぎやかな夜を迎えた。全員で父の遺骨とともに就寝。


画像左上:祭壇全景。豪華なものではないが、個人的にはこれくらいのものの方が好ましい。父の戒名は「義翁理葭居士(ぎおうりかこじ)」、父の名前の義雄の「義」、会社員時代は主に経理の仕事をしたので「理」、父の俳号が「葭生」(「かせい」、「よしお」と訓読みもできる)だったので「葭」のそれぞれの字を組み合わせた。「葭」は植物の葭(よし)、思えば風にそよぐ葭のように生きた人であった。

画像右:父のメモリアルコーナー。父と母が並んで写った写真額、父の幼い頃から学生時代、結婚式の写真をボードにレイアウト。右下にあるのは、母が台所仕事をしている様子を、父が描いた油絵。自筆短冊の俳句のひとつは、「春めくや知らぬ道から歩きだす」。どちらかと言うと無口な父であったが、ひょうきんなところがあった。

画像左下:白い霊柩車。プリウスか。最近は昔よく見かけた「宮付」の霊柩車はとんと見かけない。

2011年8月10日水曜日

父の臨終〜葬儀顛末日記 ーその2ー


2011年07月31日(日)
6時半起床。晴天夏日。兄夫婦、二人の甥とで会館近くのファミレスで朝食。不謹慎かもしれないが、このあたりから、なんだか兄家族と共にちょっとした旅行気分になってきた。父を看とることができ、ごく穏やかな旅立ちであったことへの安堵感があったからだろう。

兄が母方の親族等へ連絡。通夜を8月1日午後6時から、葬儀を翌日2日の午前10時から行うことにした。兄との相談の上、香典、献花、供物の類はご遠慮いただくことにした。父は非常識な人ではなかったが、儀礼的なことはあまり好まなかったところがあった。

会館に通夜、葬儀両日の介護タクシー手配してもらい、僕とオクさんが母の送迎係を務めることに。

午前中、会館の父の棺が安置されている部屋で女性二人の湯灌師による「湯灌」の儀式が行われた。本木雅弘主演の映画「おくりびと」で一躍脚光を浴びた「納棺師」であるが、職業名としては「湯灌師」が正式なようだ。

足付バスタブ状の湯灌専用の浴槽に遺体を移し、遺体には黒地に桜の花びら模様の布が被され、まず、手桶からひしゃくで親族が順に遺体にお湯をかけていく。足先から胸元にかけてという手順。お湯は階下からホースで窓を伝い汲み上げる方式。

その後、顔剃り、全身の清めが終わると、遺体を浴槽から布団の上に横たえ、経帷子を着せ、手甲、脚絆、頭陀袋(六文銭を入れる)等のいわゆる死に装束を纏わせる。三途の川の渡り賃といわれる六文銭は紙でできたものだった。「子ども銀行」の万札を持たせたら? というジョークが出かかったが、口には出さなかった。

湯灌師から、「90歳という高齢にしてはお肌がしっかりしていてとても若く見える」と言われた。父の裸体は、ほぼひと月の点滴のみの栄養補給故、やせ細っていたが、骨付きはしっかりとしていて、確かに肌にも高齢にしてはそこそこの張りがあった。父は、かつての村山元首相とまではいかなくても、まっ白な眉毛がふさふさとしていて、記念に父の眉毛で筆を作ったらいいかもしれない、と思ったが実行には移さなかった。

亡くなった直後、病院でも死化粧が施されたが、ここでも同様なファンデーションを使ってやっていただいた。男の場合は顔色保持ということがメインだろう。この段で、「ご親族の方々はご遺体から視線を外してください」と湯灌師に言われ、父の遺体から視線を外した。しばらくして「もう、よろしいですよ」と言われ、父の顔を見たら、やや開き気味になっていた父の口がしっかり閉じられていた。死者の顔を整え、口を閉じさせる作業のようなことをやっていて、それは親族に見せるべきではないような動作もあるのでは、と想像した。

父の顔は既に生前とは大分面変わりして、なんだか蝋人形のようだったが、表情に苦悶の跡は一切なく、ごく穏やかであった。遺体を棺に戻し、父が晩年着用していた眼鏡をかけてあげたら、だいぶ生前の父らしくはなった。

午後、母のいる特養へ全員で向かう。母はさすがに気落ちしていて、昨夜はほとんど眠れなかったと言う。「これからどうしてええか、わからんよ」と。まあ、それは父が生前からの母の口癖。前回帰省時に運び込んでいた母の喪服、靴などをチェック。母や特養の職員に明日の日程を伝える。

実家へ棺に納める父の遺品関係をチェックするため、特養の職員にタクシーを呼んでもらうが、すぐに来るべきタクシーは隣接しているケアハウスと特養を混同し、30分以上も待つことになる。ようやくタクシーが到着、実家へ。用を済まし、全員で食事をするためバスで下関駅方面に向かうが、途中、実家に忘れ物があり、兄と僕が下車し、実家に戻り、再度バスで駅に向かうことになった。

そんなわけで、当初の予定より遅れ気味に駅に到着。その足で、兄と駅ビル内判子屋で母の実印を作るための印鑑購入最中、後から声をかけられた相手が、下関駅に到着したばかりの僕のオクさんだった。彼女はちょっとした買い物のため、駅ビルに立ち寄ったところ、判子屋の前にいる僕を見つけたらしい。

僕は携帯を持っていたが、オクさんは持っていない。オクさんには駅に到着したら携帯に電話をするように伝えていたが、できれば一緒に食事をしたかったのだ。こうしてばったりと駅ビル内の雑踏の中で落ち合うとは、前夜の兄の次男との遭遇のタイミングといい、アクシデントが重なってぴったりと符合するこのタイミング、これもまた父の導きに違いないと思った。

その後、駅ビル内の中華料理店で兄の家族、僕たち夫婦全員で和やかに夕食。これから通夜、葬儀を目前とした親族とは思えないごく陽気な食事会となり、これも父の人徳のなせることと感謝したい気持ちになった。

食事後、葬儀会館に戻り、オクさんは棺の中の父と対面、兄家族は四人用のベッドがある部屋、僕たちは二人で安置されている父の側に布団を敷き、寝た。この日もぐっすり眠れた。


画像上左:湯灌最中
画像上右:死出の旅支度、手っ甲をつけさせ、数珠を握らせる。
画像下:遺族で脚絆をはかせる。

2011年8月9日火曜日

父の臨終〜葬儀顛末日記 ーその1ー

2011年07月29日(金)
午前6時過ぎ、一足先に帰省し、父の病院にいる兄からの電話で起こされる。容態は悪く、できるだけ早く現地に向かうようにとのこと。ばたばたと支度をし、午前10時33分新横浜発の新幹線に乗車。

乗車中、兄から携帯に電話あり、「おまえは間に合わないかもしれない」と.。「待ってておくれ、父ちゃん」と何度も胸中で念じながら、ようやく夕方5時頃、下関のかなりローカルな地域にあり、海に面している病院に着く。前回の帰省最終日、移送された緩和ケア病棟の一室に父は入院していた。

父の病室に入ったとき、父は酸素吸入器を装着され、口は大きく開き、肩で息をしている状態だった。前夜遅く兄が父を訪ねたときからこの状態だったとのこと。呼吸に合わせ顔が動くので、駆けつけた僕を認識し、頷いてくれたかのように思った。目をうっすらと開けている。声をかけ、顔を近づけると瞳がわずかに動き、僕を認識しているようにも思えた。言葉を発するようなことはもちろんなく、呻くような声も立てない。ただただ父の懸命な息づかいだけが聞こえる。父は僕を待っていてくれた。

父の手を握ると熱く、40度近くの発熱があると兄から聞く。一見、苦しげな呼吸だが、表情は穏やかで、医者は本人はそれほど苦痛は感じていないはず、と言う。血圧低下はまだ見られず、臨終直前であることははっきりしているが、どのくらい持つのか、こうした状態で1週間近く生きた例もあるとのことで、臨終予測については、はっきりしたことは言えないと、担当医。

とりあえず急変は見られない父を病室に残し、兄と病院近くの中華料理店で夕食。八宝菜、蟹炒飯を食べ、生ビールを飲む。兄と二人、差し向かいの食事は記憶がないくらい希有なこと。

父の病室は個室だったので、兄は病室に備えられているソファベッド、僕は病院から簡易ベッドを運び込んでもらい、兄弟で父を囲んで寝る態勢を整え、病院内のシャワーを浴びる。

一時間おきくらいに、看護士が来て父の容態をチェックする。足裏に若干の紫色の斑点(チアノーゼ)が出てきて、身体に酸素が行き渡らず、死期が近いことを告げられる。また、手先、足先の体温の低下も臨終期の判断の目安になると言う。父の手も最初に握ったときよりも冷たくなってきた感じがした。

2011年07月30日(土)
午前2時頃、父の表情が少し苦しそうに変わったように思い、ナースコール。下血あり、血圧低下、呼吸が浅くなる。父の耳元で「明日、母ちゃんが来るけえ、もうちょっとがんばって!」と告げると、父は大きく深呼吸をし、呼吸が深くなった。父が言葉を認識したとしか思えない。

その後、少しウトウトとしながら父を見守っていたが、朝を迎えるまで容態の急変はなかった。夜明けを迎えた戸外に出て、病院喫煙所でタバコを吸った。近くに木々が茂っていて、豪雨のような蝉時雨を聞く。あんなに大音量の蝉の鳴き声を聞くのは生まれて初めて。感じ入った。

朝になり、父の足はだいぶ紫色に変色していた。冷たくなっていく父の手足をさすりつつ、足の形も手の形も僕にそっくりだなあ、と思った。僕の手足が父にそっくりだと言うべきか。父の手を取り脈をとろうとしたが、脈拍はかぼそくほとんどわからなくなっていた。

9時過ぎに、兄が父のいたケアハウスの職員さんに連絡、車椅子の母を父の病院まで連れてきてくれた。母は長居はできない。母は父に語りかけ、手を握り、涙ぐみながら父にこれまでの感謝の言葉を述べ、十分に面会を果たしたところで、そろそろ病室を後にしなければ、というときに父の容態が変わった。

浅く、間隔が長くなりつつあった呼吸がいったん止まり、大きくのど仏が動いた。もう一度、静かに呼吸をしたかと思うと、大きく開けていた口がゆっくり閉じ、完全に呼吸停止の状態になった。それと同時にうっすら開いていた目も閉じられた。10時50分頃。医者を呼び、心肺停止を確認、医者から告げられた正式な死亡時刻は7月30日午前10時56分。享年90歳と4か月あまり。母、兄、僕に手を握られながらの最期だった。

しばらくしてオクさんに電話。彼女は明日こちらに来ることになる。

父の死亡が確認されてからが慌ただしかった。兄があらかじめ決めておいた葬儀社へ連絡手配。すぐに病院の看護士の手により、遺体の清め、ファンデーションを使っての死化粧が始まり、白衣を着せていく。その様子を横目で見ながら僕は父の病室の整理にかかった。父の衣服下着類、所持品をまとめ、病室を後に。

兄の長男が直後、病院に駆けつけてきた。甥はわずかばかり、彼からすれば祖父である父の死に目に立ち会うことはできなかったが、病室に安置された父の遺体と対面することはできた。

兄は母の住む特養に母を送り届け、父の遺体は葬儀社の車で葬儀会館に運ばれ、僕と甥は父の病室内の所持品を運ぶため、いったん実家に向かい、それから父が安置されている葬儀会館に向かった。多くの病院の医師、看護士、職員の方々が父を見送ってくれた。

葬儀会館に到着すると、兄嫁が到着していた。ほどなく父が檀家である曹洞宗の住職が来て、父が安置されていた部屋での読経(枕経)をあげてもらった。住職はまだ若い陽気な感じの話し好きな方で心が和んだ。

その後は、葬儀社との打ち合わせ等でばたばたとしたが、葬儀の方法について基本的には喪主である兄との意見の相違はないので、スムーズに事が運んだ。父は一人っ子で既に近しい親族はおらず、母と息子二人とその家族、母方の親族とごく身内だけで執り行う葬儀故、シンプルに徹した。それが父の望むことだと信じてもいる。

とりあえず、通夜、葬儀の次第は整い、夕刻、兄、兄嫁、甥とで夕食に出かけようとしたが、そのときに会館の職員が会館内に誰もいないことに気がついた。地方ののどかな場所の葬儀会館であるが、不用心に驚いた。父をひとり残して外出することはできない。

30分以上も待たされ、ようやく職員が平謝りで戻り、下関駅構内にある食堂に向かい、食堂に着いて注文を取ろうとした頃に、兄の次男が駅に到着、グッドタイミングに落ち合うことができた。葬儀会館で待たされなければ、兄の次男と一緒に食事はできなかった。これは父の導きだと思った。兄の次男を加え、全員で食事、僕はカレイの唐揚げ等を食べた。美味だった。

兄の家族全員と僕とで葬儀会館に戻り、僕は父が安置されていた部屋で、父の棺と並んで布団を敷き、寝た。夢も見ず、ぐっすりとよく眠れた。

WeeklyTwitts 2011 (7.25~7.29)

2011年07月25日(月)
小田急永山の兄の家に行き、ビールを飲んで少し酔っていたせいか、京王永山から新宿方面の電車に乗って、すぐ本を読み始めたので三つくらいの駅を通過、そのあたりで乗るべき電車を間違えたことに気づいた。抜けsuck !
posted at 00:32:25

兄宅で夕食をいただいたが、帰宅して夕食が用意されてたのでそれも食った。シメサバ、かまぼこ、グリーンアスパラ、味噌汁は兄宅。鶏の唐揚げ、野菜サラダは我が家。晩ご飯のダブルヘッダー
posted at 00:36:24

仕事部屋のアナログテレビをつけてみれば、いわゆる「砂嵐」状態。テレビ放送開始年は何年だったかよく覚えている。それは僕の誕生年でもあるから。「生まれたときからテレビがあった」と言える最年長の世代であります。
posted at 00:41:47

未明の地震で目が覚め、テレビで情報確認やらしてたので、起床9時半。震災以前から地震(小さな地震でも)はとりわけ苦手だったが、いよいよ「地震フォビア体質」になったようだ。神奈川直下の「でかいのが起きる確率増大」は気になるが、心しておくこと以外どうにもならない。
posted at 13:26:55

そんなわけで朝方のレム睡眠時に夢を見た。今は意識が混濁している父から電話がかかる夢。「父ちゃんやけどね」と電話口の父の声は元気そうだった。もっと夢の中で会話がしたかったが、会話はそこまで。
posted at 13:30:24

で、朝一で兄から電話。8月初旬からの「第二次介護帰省ミッション」に関する諸々。先々の事細かな「指令」を承る。兄は万事細かな性格、僕は大ざっぱ、兄は母に似、僕は父に似た。
posted at 13:35:35

関東地方は「避暑地の気候」から、徐々にそれなりの夏模様。しかし、予報が言うように、一気に暑くなる感じではない。これくらいなら扇風機でしのげる暑さ。温暖化が叫ばれるずっと以前、昔の夏はこの程度ではなかったか。
posted at 13:42:50

今日はアメリカ在住の古くからの友人がやってくる。二、三日の間、我が家に宿泊する予定。さて、部屋の掃除やらねば。まずは気がつけば「堆積層」を成す机上から。
posted at 13:48:51

2011年07月26日(火)
旧友A君に再会、昨夜は旧交を温め、夜更かしした。彼はLA在住25年、メキシコ系奥さんと二人の子どもの父親。僕がアメリカに行ったのはもろに彼の影響。僕が滞米中はホントにお世話になった。七年前に風呂場で転倒、頭部を強打、生死の境を彷徨った経験を越え、仕事に復帰、音楽活動も続けている▶A君、かつては浴びるように酒を飲んでいたが、転倒事故を機会にぷっつり酒をやめた。「酒をまったく飲まなくてもナチュラルにハイになれるようになったんだ、最高だよ」と言う。地獄を見た人はどこか吹っ切れていい感じになる人が多いような。「アル中なおもて往生す」
posted at 14:38:05

ところで、昨日携帯電話を購入した。僕は今まで携帯を持っていなかったが、それは必要に迫られなかったことと、そもそも携帯を所持するのが嫌だったことがある。今回の携帯購入は8月初旬の帰省に備え、ただただ必要に迫られたからであります。
posted at 14:42:29

なきゃないでいいものが、持ってしまえば(当人にとって)必要不可欠になることは理解できる。携帯然り、パソコン然り、車然り。「なきゃないでいいもの」と言い切るのに難しいのは、ある程度のカネ。それとそれなりの「希望」。
posted at 14:47:50

2011年07月27日(水)
A君@我が家3日目。起床8時半。今朝もはよからA君相手にウクレレ談義。彼は人の話をよく聞いてくれる優しい性格なので、ここぞとばかりウクレレの話をしたのだった。今夜は東京赤坂方面音楽酒場に出撃予定。もちろんウクレレ持って。
posted at 11:21:03

2011年07月28日(木)
昨夜はA君と赤坂にコモエスタ。本格的ジャズコンボの生演奏をバックにお客さん(メインは妙齢ご婦人)が歌うという趣旨のお店。みなさん、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けているような方々。まあ、僕なんかはちょっと場違いかな、と▶でも、せっかくだから、まあジャズ系と言える数少ないレパートリーのひとつTwilight Timeを歌った。ジャズ・コンボで歌うのは勝手が違ってちょっと緊張したな。その後、僕の「アマノジャク虫」が疼き、場違いな「スタンド・バイ・ミー」をA君のギターバックで歌った。確信犯的に▶終電で帰路、A君とラーメンを食べて帰宅。本日起床9時。お昼過ぎにA君を駅まで見送って、懐かしい友達を我が家に招いての三泊四日は終了。旧交を温めるとても良い時間を過ごしたと思っていたところで、父の容態が悪くなったとの連絡あり、予定を早めて明日にでも帰省する予定。
posted at 16:30:18

2011年07月29日(金)
ううむ、やはり明日帰省することになりそうだ。やれさて。麻婆茄子
posted at 01:55:07

さてさて、これから今夏第2次介護帰省。待ってておくれ、父ちゃん。
posted at 09:12:01