2011年4月19日火曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その8



3月28日(月)

ー承前ー 
父は産婦人科受付窓口前のソファに座っていた。「なんだ、父ちゃん、来たんかね」と言えば、「いや、これを買いとうてのぉ」と病院の売店で買ったらしい室内履きを僕に見せた。「これが一番履きやすいのやけど、わしが持っとるのは色がついちょるけ、好かんやった。白いのはここしか売っちょらんけえ」と父は言った。

父がケアハウスでこのところ愛用している室内履き(体育館履き)は、爪先のゴムあてが青い色のもので、「あれは子どもが履くようやけえ、好かん」ということだった。なに、心配になったので一人、タクシーを呼んで来たのだった。

「歩くのも大変なのに、来んでもええのに」と僕は言ったが、そもそも、父が母を病院に連れて行くのが無理になったので、滞在を延ばして、母の病院搬送ミッションを受け持ったのだ。もっとも、父がなんとか母を連れてきたところで、耳が遠く、医者の言うことがほとんど聞き取れないので付き添いはこなせない。母は耳は良いが、別の問題でそうしたことの理解は既に難しいわけで。

結局、車椅子の母と歩行がよたよたの父の二人を見ていなければならなくなった。この日の朝、父は「わしも行こうかいのぉ」と言っていたが、「父ちゃんは来んでもええよ。そのために僕が連れて行くんやけ」と何度も言っておいたのだが。こういうところが父にはある。

母は思いがけない父の登場にも特に何と言うわけでもなく、大人しく診察の順番を待っていた。「久しぶりに車に乗って、どうやったかね?」と聞けば、「懐かしかった」と。

12時半の診察予定だったが、1時間近く待っても名前を呼ばれない。順番的にそろそろ次かなあ、という頃、母が「トイレに行きたい」と。診察前にトイレを済ませておきたいという気持ちだったようだ。

これは想定内で、僕は事前に特養の職員による母のトイレ介助を見学させてもらっていた。ただ、見ただけで、実際にやってみるようなことはしなかった。トイレ介助というのは僕の人生において未経験。何度か中度の生徒の便の始末はしたことはあったが。

とりあえず、障害者用のトイレに車椅子を押していき、手すりに手をかけさせ、母をうしろから抱きかかえて便座に座らせようとしたとき、母は「なんかついちょる」と言って座ろうとしない。見れば便座が古く、ところどころペンキが剥げ、小さなゴミが付いているように見える。母は耳も良いが、目も良く、極端に神経質なので、そういう微細なゴミも気にするのだった。

「母ちゃん、これはペンキが剥げちょるだけ」と言えば、「ゴミもついちょる」と。よくよく見れば確かに便座に小さなゴミが付いていた。母を支えながら、そのゴミを拭き取って、ようやく座らせることができた。母の体重は30キロくらいしかないが、完全に身体を委ねられているので、想像していたよりずっと重く感じ、僕は腰に爆弾(ぎっくり腰)を抱えていることもあり、ちょっと冷や汗が出た。

で、母は「小」を済ませたかと思えば、「大」の排泄に及び始めた。それで、僕に「お腹を揉んで」と言う。思えば、母の下腹部を直に触るなんて生まれてこのかた、初めてではないだろうか。母のお腹は頼りないくらいふにゃふにゃして乾いていた。

「もっと強くして。やっぱり男やとダメやね」と母。「そう言うたって、僕はこんなことするの初めてやけ」と母に言ったが、母は不満そうだった。

ことが終わり、お尻を拭いてあげたが、母のお尻を拭くのももちろん初めて。というか、自分以外の人間のお尻を拭くというのがそもそも初体験。お尻の肉はそげ落ちていて、哀れな感じがした。尿漏れ用のパッドをあてがい、パンツを上げたりするのも、本人が動作にあまり協力的ではないので、一苦労。僕の介助は、母には満足がいくものではなかったようだが、それはしょうがないだろう、初めてなんだから、なあ、母ちゃん。

なんとかトイレを済ませたものの、今度は水を流すコックが見あたらず、困った。「手をかざすと水が流れる式」だったが、ああいうのは老人はとまどうのではないだろうか。

初めて息子にトイレ介助をしてもらって、なにがしかの感慨を母が感じていたのかは不明。ありがとう、とも言うわけでもなく、ごく淡々としていた。

トイレから戻ってくると、ようやく診察が始まり、診察時間はたかだか15分。「特に問題はありません」ということだった。

会計窓口で支払いを済ませ、また介護タクシーを呼ぶとすぐに来てくれ、父が一緒にいることを知って、「お父さんも乗せて行きましょう」と。父の歩行器をたたんで車内に入れ、足元のおぼつかない父を抱えて座席に座らせてくれた。介護タクシーの運転手さんにも余計な労力をおかけすることになった。

特養に母を送り届けたときは、既に午後3時を回っていた。母は特に疲れたような様子はなかったが、「また1年後くらいに検査に来てください」と言った医者の言葉をしっかり聞いていて、僕に何度も「また病院に行くやら、せんよ、私は」と言った。

その後、しばらく母のそばにいたが、突然、母は「父ちゃん、弱ったやろ?」と僕に聞いた。「うん、足がだいぶ弱うなったね」と正直に言うと、「父ちゃんのことが一番、心配」と言う。「いつも、父ちゃんのことを考えるのよ。この先、どうなるんやろ」と心細げに言った。

話題を変えようと、前日に父が「今度、生まれ変わったら、まず車の免許を取りたい。車が運転できんかったので不便やった」と言ったことを思い出したので、その話を母にした。

母は父の言葉への感想は言わず、「あんたは生まれ変わったらどうしたいんかね?」と僕に聞いた。しばらく考えて「うーん、結局、今とあんまり変わらん生き方をするかねえ」と答えた。「母ちゃんはどうかね、生まれ変わったら?」と聞けば、「私も今と同じようになるやろうね」と言った。

母に別れを告げ、ケアハウスで父と夕食を共にした。父と食事をするときは、ケアハウスの方で、食堂から海峡がよく見える広い窓際に席を設えてくれる。二人で海を眺めながら黙々と食事をした。

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画像はケアハウス食堂から見る海峡。

2011年4月17日日曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その7

3月28日(月)

7時半頃起床。ケアハウスのゲストルームは、棟の地下1階にある(と言っても、建物は海沿いの高台にあるので、窓から眼下に海を見下ろすことはできる)が、高級そうな家具、ソファーや広いダイニング・テーブルが置かれた二十畳くらいはある応接・リビングスペース、それに続く陽光が降り注ぐ床から天井までの大きなガラス窓がついたオール電化のキッチン、奥に八畳の和室、隣り合わせて浴室付きのツインベッドルーム、という間取り。他にも、家族で入れる大きめな浴室、トイレが2カ所あり、応接スペースから、海を臨む広々としたベランダや中庭に出ることができる。

そうしたアッパーミドル用の住宅のサンプルのような場所は、僕には完璧に分不相応であり、またそうした場所にたった一人(土曜から日曜にかけては兄たちも宿泊したが)で連泊するのは、正直なところ、快適だとは言い難い。置かれている調度品や家具なども、いかにもプチブルテイストのそれで、僕はそういうのも嫌いだから。広いリビングの暖房費は宿泊費(これは安いです。2900円)に含まれてはいるが、ちょっと寒くても貧乏性の僕は暖房も入れず、毛布を膝元にかけて、ひとり大型液晶画面のテレビを見るのだった。

この日は、母を車で30分くらいかかる市の病院に連れて行かねばならなかった。母は「子宮脱」の症状があり、器具を入れて症状が出るのを防いでいるが、その定期的な検査のために病院に行く必要があった。病院には12時頃の診察を予約していたので、10時過ぎには特養の母を訪ねた。

事前に車椅子で搬送できる介護タクシーを11時に回してもらえるよう予約していたが、大腿骨骨折し、その後車椅子生活者となった母は、この前日の父の祝いに参加するため2,3分外に出たのが特養入所以来、初めてということだったので、問題なく病院に連れて行けるかどうか、少し不安だった。本人は、それこそ不安のかたまりでできているような人間だし。

12時頃の診察を予約していたことで、母の昼食の問題もあった。特養の昼食は11時半頃から始まり、1時を回ると食品衛生上、取り置きができないとのこと。食べてから行くには早すぎ、帰ってから食べるのは遅すぎる。当初は病院の売店でパンか何か買って、待合室で食べてもらおうと思っていたが、母は「パンはいや」だと。では、タクシーで行く途中にコンビニに寄ってもらっておにぎり弁当のようなものを買うかな、と思っていたところ、母は「私はいつもおかゆを食べてる」と。

職員に聞けば、母は「おかゆでなくても食べられますが、たぶん、食べるのに楽だから、おかゆにして欲しいと言うんです」ということだった。「母ちゃん、おにぎりとかでもええやろ?」と聞けば不承不承に頷いた。僕なんかは、こういう状況の時、昼食を抜くなり、後から食べるなりするわけだが、たぶんに自閉的なこだわりが強くなった母は、ある程度決まった時間に食べないと気が済まないわけで。

11時に予定通り介護タクシーが来て、病院に直前に電話を入れると診察時間を12時半にしてくれと。タクシーの運転手にその旨告げると、ちょっとムッとした感じで、これから出るには早すぎる、また12時頃にあらためて来る、と言われた。平謝りして、ふと、出発12時だったら、母がお昼を食べる時間があるではないか、と。特養の昼食は欠食を告げていたので、その日の母の昼食の分はない。特養から急な坂下にある食料品店があるのだが、そこまで走ったね。往復で15分くらいか。母の好物の巻き寿司の弁当を買った。

で、母に食べさせ、職員に「行く前のトイレ」介助をしてもらい、12時に再度やってきた介護タクシーに乗せ、市の総合病院まで。母は特に不安な様子もなく、かといって、久しぶりであろう外の景色を懐かしむ感じでもなく、淡々と介護タクシーに乗っていた。当初はぶっきらぼうな感じの運転手さんも、かつて神奈川に住んでいたらしく、やたらと話しかけてきて、母と会話することができず、少し困った。

診察予定時間の12時半少し前に、病院に到着、車椅子を押して、婦人科の受付窓口に行くと、そこにはなぜか、ケアハウスの自分の部屋にいるはずの父がいた。

つづく






画像左:このソファは見かけよりすわり心地があまり良くなく、革張りなのでずりっと滑ったりするので、あまり感心しない。後の絵(このケアハウスはオーナーの好みなのか、いたるところ、やたらに油絵が飾られている。)は、僕に言わせれば「やあ、お上手ですね」とアマチュア画家に言うような感じ。
画像中:部屋から「パティオ」に出れたりする。ここんとこがリッチな感じ。
画像右:明るいキッチン、高所恐怖症の僕は窓のすぐそばには立てない。

2011年4月16日土曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その6

3月27日(日)

普段は夜型の僕も「老人タイムゾーン」三日目ともなると、そこそこ早くに目が覚めた。下関に帰るといつも思うのだが、本州西端ということで、関東圏より朝が来るのが少し遅い。土地の特徴的な気候なのか、関東のように朝から快晴というようなことはあまりないように思う。ぼんやりとくぐもった感じの朝が多いような。この日もそんな感じの朝。

9時頃、母のいる特養を兄たちと訪ねた後、全員で再度、父の部屋に行き、甥のお嫁さんからプレゼントされた花を父の部屋の棚の上にいけたりしながら、しばし談話。兄夫婦と甥たちはそれぞれ他の用件有り、この日の午前中でひとまずお別れ。僕はこの翌日、母を定期検診のため病院に連れていくというミッションがあるため、しばらく滞在を続けることになる。

兄たちが去った後、父の部屋を訪ねたとき、父は財布を探していて、よたよたと部屋をうろつきながら「どこに置いたかいのう」と。一緒に探してあげたら、引き出しの中にちゃんと入っていた。父は、財布に限らず、始終、何かを探していて、父ほど顕著ではないが、僕もその血筋を引き継いだところがある。おれもああなるな、と。

この日の夜も、父は棚の上の何かを探していて、その棚の上に置かれた花束をいけた花瓶を見事にひっくり返してしまった。部屋の床は水浸し。また、その翌日だったか、部屋を訪ねると「あんたにもらった足袋ソックスを冷蔵庫に入れとった」と。足袋ソックスはオクさんが父へのプレゼントとして僕に持たせたもの。「なんで、そんなもの、冷蔵庫にいれるんかね?」と聞けば、「うーん、どうしてなんかいね、わからん」。

この日は、午後からケアハウスからバスを乗り継ぎ、小一時間かかる実家に行ってみた。母の欝病のため、両親がケアハウスに入居したのが05年秋だったから、実家は主なき状態でもうかれこれ6年が経つ。父が元気なときは、ちょくちょく様子を見に訪れたり、ある程度の管理もしてきたようだが、最近はほぼほったらかし。今後、この家をどうするかという問題もある。

実家は僕が中2のとき新築したから、築40数年。父は「良い材料を使っているから、まだまだ充分に住める」と言うが、高齢の父が既に充分に管理できないため、借家として人に貸すこともできない。父にとってはケアハウスはとりあえずの仮住まいで、いずれ実家に帰ってくるという気持ちはあったのかもしれないが、今ではそれはない話。

いつか父は「あんた、あそこに住まんかね?」と僕に言ったが、僕にはその気はない。17才のときに離れた実家周辺に友人、知人などもいないし、いまさら、という気持ち。僕のオクさんのご両親がやはり老老介護状態で横須賀に住み、オクさんはちょくちょく手伝いに行っているという事情もある。ただ、今回の震災、原発事故で、ほんの少し頭の片隅には。下関は地震に関しては比較的安全な場所。

住む人がいないと家はすぐに荒れると聞くが、帰省のたびに、実家の様子を見ることにしていて、いつも特に変わりはなく、そこだけは時間が止まっているかのよう。家財道具もまだほとんど残っていて、震災被害者の住まいとして使えるなあ、と思ったりもした。ただ、僕は遠くに住み、父がいよいよ高齢なので、現実的にはそれは難しい。

父から鍵を預かり、実家を訪ねると、今回も特に変わりはなく、今回、初めて気がついたのだが、庭にそこそこ大きな梅の木があり、紅梅が咲いていた。ケアハウスに戻ってその話を父にしたら、「あんたがおるときは小さな木だったが、だいぶ大きゅうなったね」と。そりゃあそうだ、40年以上も経っているのだから。






画像上:あるじなき古家の庭に咲く紅梅
画像中:実家を訪ねた帰り道、バスには乗らずしばらく歩いた。僕がいた頃の町の様相は大きく変わったが、小さい頃から変わっていない建物もある。ここは、当時はたばこ屋&お菓子屋だった。看板も当時のまま。ここでよくアイスなどを買った。お店は閉店状態だが、今もひっそりとどなたか住んでいらっしゃる模様。
画像下:関門トンネル、西側の入り口付近。小学校のとき、好きだった女の子がこの坂の上に住んでいた。坂を上がっていてちょっとドキドキした。センチメンタル散歩。

2011年4月9日土曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その5


3月26日(土)

さて、父の卒寿の会、当日。午前中、ケアハウスの食堂ロビーで行われる「デイ・ケアの方々と合同レクリエーション&フィットネスの時間」を見学した。父は週2回ほど、この催しに参加しているとのこと。

デイケアの方々はさすがにお元気で、ケアハウス入居者だけだと日々、ごく静謐でまったりとした時間が棟内を流れているが、デイ・ケアの方々が加わると、そこそこにぎやかになっていい感じ。

「合同レクリエーション会」の前半は、参加者各々が自由に、塗り絵や各種ゲーム(さすがにアナログ系)、パズルなどの用意されたキットを選び、職員の指導の下、各々のペースで楽しむという時間。僕がかつて行っていた境界児向け授業と基本的には同じ感じ。

父は、比較的簡単なジグソーパズルに取り組んでいたが、それほど楽しそうな感じでもなく、淡々と取り組んでいた。時間が押し迫っても完成できないのを、デイケアのお元気なお年寄り男性が手伝ってあげていたが、それでもなかなか完成できない。つい、そばでその様子を見ていた僕が手を貸したら、「あんたは頭がいいねえ」とそのデイケアお爺ちゃんに言われた。父は特に完成させることに執着していなく、まあ、どうでもいい感じ。

父は昔から囲碁、釣り、絵画、俳句とたしなみ、まあ、趣味人と言える人であったが、俳句は地方の俳壇で賞を受賞したりと、そこそこの域に達したものの、その道を極めるといったことはなく、そのあたり、僕と類似していいるところがある。

レクリエーションタイムが終わり、次は体操の時間。職員の指導の下、みなさん、椅子に座っての「老人体操」を行う。手足の屈伸、ストレッチ、昼食前の「咀嚼準備運動」等が主なメニュー。

椅子に座ってなら、父も足を上げたり下げたりはできる。ただ、指導員が見本を示しながら、「右足を上げて」と言うと、左足を上げ、「左を向いて」と言うと右を向く。「父ちゃん、右足だよ」とそばにいた僕は父に話しかけるが、聞こえていない。

ははーん、父は耳が遠い故、指示の言葉が聞こえず、指導員のやることのミラーイメージで体操を行っているんだな、と気がついた。まあ、左右違っていても、体操の効果は同じだろうが。

午後になり、兄夫婦、上の甥夫婦、下の甥、下関在住の兄嫁のお母さん(この方は母より二つ三つ年下の方だが、足腰達者でおそろしく元気が良い方)が続々とケアハウスに到着。母がいる特養をみんなで訪ね、車椅子の母を隣接したケアハウスに搬送、夕刻、兄が手配した仕出し弁当が届き、2年前の「米寿の会」と同様、ケアハスのゲストルームで「卒寿の会」がスタート。

父は会の冒頭、「なんだかぼんやりとしているうちに、卒寿を迎えることとなりました。なかなかお迎えが来ないから仕方ない」みたいなことを述べた。母はただただ大人しくしていた。

宴もたけなわの頃、僕は、父が知っていることを期待しながら、戦前ポップスの『コロラドの月』(この曲にまつわる素敵な光景を後日、目にすることになるのだが)をウクレレを弾きながら歌ったが、父はこの歌を知らなかったようだ。「竪琴のような音がするのぉ」というのが父のウクレレを聞いての感想。そして、昔、母が大好きだった喜納昌吉の『〜花〜すべての人の心に花を』を歌った。「母ちゃん、この歌、好きやったよね」と母に声をかけたら、こくりとうなずいたものの、母の反応はイマイチだった。

ビールと日本酒をそこそこに飲んで良い気持ちになったのか、父が突然、アカペラで「ズンドコ節」を歌い出した。ドリフのではなく、「正調ズンドコ節」というのか、その歌。父はけっこう歌うことが好きなのだった。齢90、耳、足腰がめっきり弱くなったとは言え、歌を歌う気持ちが残っていることには嬉しく思った。

久しぶりに会った兄嫁、甥っ子などと、つい震災の話が盛り上がり、あとからあの席では慎むべきだった、と少し後悔した。父の誕生日は3月12日、父も「あんなことがあったときに卒寿とは気がひける」というようなことを言っていた。

被災地とは遠く離れ、ごく平和に見える本州西端の地に夕日が落ち、あたりが暗くなる頃に宴は終了し、「食欲だけは旺盛」な父と母は料理もよく食べた。父母、各自の居所に戻り、ゲストルームで夜更けまで兄嫁たちと震災の話に終始して一日が終わった。


*画像は宴の仕出し弁当。本来これに「フグ刺し」が付くはずだったが、手違いで付いてなかった。翌日、兄は弁当屋にクレームをつけたところ、おわびに全員分の下関名産「粒ウニ」をゲットすることになった。

2011年4月1日金曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その4

3月25日(金)

さて、下関駅に着いて、念願のうどんも食べ、本州の西端、下関のさらに西端、北九州は「川向こう」というロケーションにある、彦島というところに住む父に、「これから行くよ」と電話を入れる。これが一苦労。

父は年々、耳が遠くなってきて、補聴器は持っているのだが、違和感があるらしく、使うように勧めても使わない。本人は聞こえなくても「特に不自由はしない」と言うが、周囲は困る。僕のように携帯を持たない人間に対して周囲が感じることと似ているかもしれない。

「今、駅におるよ。これからそっちに行くけえ」と言えば、「はあ? 誰かね」。駅構内の公衆電話からかけているので、周囲がはばかれるが、しょうがない、大声で話すことになる。

ようやく会話が成立して、またバスに乗って、父の居住する「猫岬ケアハウス」に向かう。昨年5月末に、大腿骨骨折をした母が入院していた病院を訪ねて以来の訪問になる。その後、母は歩行ができなくなり、車椅子生活者となって入院先の病院から、そのまま特養老人ホームに入所することになった。それまでは、母は父とケアハウスの夫婦用の部屋で共に住んでいたのだが、母の入院を機に、父は単身者用の部屋に移ることになった。その父の単身者用の部屋を訪ねるのは今回が初めて。

到着したのは午後3時前。これまでの帰省の際は、父と母の夫婦用の部屋で僕は寝泊まりしたが、単身者用の部屋は手狭なので、今回はケアハウスのゲストルームに宿泊することにした。施設の職員のみなさんに挨拶をして、まずはゲストルーム(これがなかなか分不相応な豪華な空間なんですが)に荷物を置いて、ジャージに着替え、やれやれと。

その後、父の部屋を訪れ、「一緒に行ってみようか」と言う父とともに、ケアハウスに隣接している特養ホームに母を訪ねた。同じ経営母体のケアハウスと特養は距離的には、普通の人であれば、徒歩でものの2,3分とごく近いのだが、いったん外に出て、けっこう急な坂を下らなければならない。父も歩行が危うくなっていて、手押しの歩行器が欠かせなくなっている。昨年より目に見えて足腰が衰えたようだった。

歩行器を押しながら特養に向かう坂をよたよたと下りる父は、はなはだ危なっかしく、注意を促せば、「なあに、こんなのわけはない」と言うが、父が母のところを訪ねる際に転倒でもしたら、と心配が増えた。これだけ近くても、最近は二日に一回訪ねる程度だと言うが。

「坂を下りるときは、充分気をつけんにゃいけんよ」と声をかけるが、父には聞こえていない。父は穏やかな性格の人物だが、基本的に、周囲が良かれと思ってするアドバイスのようなことはあまり聞かない。文字通り、耳が遠くて人の言うことを聞けないこともあるが、けっこう、自分勝手で周囲を心配させるような行動を取ることがある。

特養ホームは母が入所する前に見学していたが、ケアハウスと同様、間近に海が展望でき、環境はこの上なく良いところに立地している。まだ建てられてそんなに経ってなく、外光をたっぷり取れる大きな窓があり、明るくてごく清潔な住環境だ。入り口から少し廊下を歩けば、入居者の人たちが食事をしたり、お茶を飲んだりするリビングルームに突き当たる。

母を訪ねていったときは夕食前の時間にあたり、入居者の人たちは、自分の部屋のベッドで寝ていたり、何人かはリビングルームのテーブルについて、海に面した大きな窓からの午後の陽射しを浴びながら、何をするでもなくぼんやりとしていた。

入居者は7,8人くらいか。それに対して常時、3人くらいのヘルパーさんや介護士の人たちがつくので、ケアの面でも申し分ないように思える。それぞれの入居者が寝起きする部屋のドアは開放されているが、プライバシーも保てるような構造。

父とともに、母の部屋を訪ねると母はベッドで寝ていた。昨年の5月に会ったときより、またさらに小さくなったように感じた。もう、6,7年前になるだろうか、身体が弱るより先に精神に変調をきたした母の様変わりにショックを受け、当時はそういう母をなかなか受け入れることができなかった。

それから1年に1,2回帰省するようになり、徐々に僕もこれは「仕方がないこと」として、母の状況をそれなりに受容するようにはなっていたが、今回はほぼ一年ぶりの、今度は歩くことが完全にできなくなった母を見ると胸が痛んだ。

母のそばに行き、「母ちゃん」と声をかけると、母は目を開け、一瞬、破顔した。顔をくしゃくしゃにして、笑ったような、困ったような表情。2年くらい前から生やしている僕のあごひげを触りながら、「ひげが白いねえ」と言った。「僕も年をとったけえねえ」と言うと、「懐かしいねえ」と母は言った。

しばらく母のところにいて、また父と共にケアハウスに戻り、父と共にケアハウスの夕食を食べ、あまりスムーズに会話ができない父とあまりスムーズではない会話をして、父と別れゲストルームに戻った。

深閑としたゲストルームの広いリビングのソファに横になりながら、ひとしきり震災関連のテレビニュースを見た後、ベッドルームに行き、窓を開けると潮騒がうるさいくらい聞こえてくる。窓から夜の海峡を眺めていたら、泣けてきた。

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画像上:母が入所した特養老人ホーム入り口。なかなかコンテンポラリーな外観。この手前の坂がけっこう急な勾配になっている。
画像中:ケアハウスの夕食。典型的な老人食で、ヘルシーでダイエットに良さそうだが、味付けが薄く、僕にはちょっと。
画像下:ケアハウスから臨む夜の海峡。向こう岸は北九州。昼間は大きなタンカー等が頻繁に海峡を渡る。船舶オタクならこたえられないような場所だろう。