2011年12月1日木曜日

喪中葉書は出しません

「荒淫矢の如し(筒井康隆の造語)」で、はや師走となった。 

あまりにも時が経つのが速いので、ついこの先には急流となった時間がどどどと落下する「時間の滝」があるように思える(これも筒井の短編であったな)。 

今年は個人的にも震災以降は停滞した。なにか拭えない澱みのような哀しみが残り、世界はショギョームジョーに満たされているなあ、とかね。そんな「やれやれ感」が特に秋口以降は心を占めるようになった。 

でも、まあ諸々、前向きに考えようとはしています。考え方次第だからね、物事は。日々、瞬間瞬間、心に気持ちの良いことをできるだけしていきたいなあ、と考えてはおりまする。 

ところで、平易な語り口で仏教の本質を解説する、ひろさちやという宗教学者がおりまして、今夏、親父が亡くなって葬儀をどういうふうに執り行うかというときに、彼の『お葬式をどうするか—日本人の宗教と習俗 (PHP新書)』という本を読んだのですね。 

以下、アマゾンの「内容紹介」から抜粋
 
お葬式は宗教か、習俗か? 通夜と告別式の違いは? なぜ火葬をするのか……。葬儀はいかにあるべきかを比較宗教学的に考えてみる。 
お葬式とは、本来、宗教ではなく習俗である。すなわち、成人式や結婚式と同じ儀式にすぎない。しかし、日本人の多くが、そこに格別な宗教的意義があると誤解している。 

つまり、ひろさちやさんによると、葬式というのは本来の仏教思想とは異質なものであり、「本来の仏教思想に基づいた、弔いの心、偲ぶ心があれば、しきたりにこだわる必要はない」と説いているんですね。 

僕は仏教について造詣が深いわけでもなんでもないけれど、以前から仏教ってなかなか「ロックな」宗教だなあ、とは思っていた。つまり、体制とか常識とか社会的通念とかに対して「カウンター」な感じがする、カウンター・カルチャーとしての仏教というか。親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」なんてロックだよなあ、とか思うのです。 

で、この『お葬式をどうするか〜』では、いわゆる「葬式仏教」に対して痛烈な批判が満載で、ことに世間体を気にした華美な葬儀に対する批判については、僕などは「うん、うん、そうだよなあ」と同意するところが多かった。 

そんなこともあって父の葬儀は極力シンプルに質素に(しかし、一応の世間的な常識の範疇内ではあったが)行った。生き方も性格も僕とまったく違う兄とはこの件についてはほぼ同意を得たこともあった。何より父が世間体を気にするような人ではなかったことがある。 

と、前置きが長くなったが、このところ考えていた「喪中葉書」を出すべきかの件で、自分なりの結論が出たので報告をします。喪中葉書は出しません。社会的な常識に欠けるように思われるかもしれないが、まあ、それはかまわない。 

『お葬式をどうするか〜』の中でも、この件に触れていて、仮に元日が死者の四十九日を迎える前であったら(百歩譲って)、「喪中」として年賀状を欠礼しても良いだろうが、四十九日を過ぎていれば、平素と変わりなく賀状を出したり、もらったりして何ら非常識ということは(本来の仏教観から見れば)まったくない。むしろ新年をいつも通り祝うべきだ、ということが書かれてあった。同意した。 

先日、被災地での年賀状はどうするか、ということが朝日の記事にあり、「明けまして元気です!」というのはどうだろう、という意見があった。いいんじゃないかな、と思いましたね。 

というわけで、来年の年賀状は基本的にはいつも通りにいこうかと(ただ、文面は工夫しようかと思ってます)。ただ、これは僕の個人的な考えなので、喪中葉書を出す習慣については批判的なわけではありません。誤解なきように。また今年、喪中葉書をいただいた方々には賀状を出すのは遠慮します。 

以上、「山下のお父さん、亡くなったと聞いたけど喪中葉書が来ないなあ」と思っている友人、知人、関係各位に。

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