2011年8月18日木曜日

家系図におけるミステリー


6月の終わり、僕は父が住んでいたケアハウスにしばらく滞在し、ケアハウスの退居手続きを行うとともに、父の部屋に残された品々を整理し、残しておくべきものと判断したものは実家に運び込んだ。ケアハウスの父の部屋は、昨日まで普通に暮らしていた部屋の住人が突然失踪したかの様相で、父が自分の死を予期し、ある程度の整理に及んでいた形跡はなかった。

父は卒寿の祝いのときに言っていたように、「なかなかお迎えが来んからしょうがない」という気持ちで淡々とそこで普通に暮らしていて、突然に近い形で体調の変調があり、それは脳の病であったから、死に行くことの理性的な認識もつかぬまま、あれよあれよとひと月後に亡くなることになった。

そういうこともあってか、父の性格なのか、部屋にあったいくつかの整理箱や書棚の引き出し等に、大切なものも、そうではないものも、わりと一緒くたに保管していた感じがあった。そういう無造作に保管されていたものの中に、和紙に毛筆で書かれた祖父の戸籍謄本と父が書いたものと思われる「家系図」があった。

それらによって、僕は生まれて初めて父方の曾祖父の名前が浅吉という人であったことを知った。曾祖母の名前はアサノ。曾祖父と曾祖母の間には三人の息子がいて、長男は寅吉(父親同様、博徒チックな名前だ)、次男は保太郎、三男が久雄、と順繰りに名前が普通っぽくなっていって、この三男の久雄さんが僕の祖父である。祖父は明治26年の生まれ、昭和55年に88歳で亡くなった。

祖父が四国愛媛の出身であることは知っていたが、戸籍書類によると愛媛県西宇和郡、八幡浜という土地の出身のようだ。四国の上部左に突きだした佐多岬半島の懐あたり、四国の西端に位置し、瀬戸内海を挟んで北方に中国地方、西に九州を臨む土地だ。曾祖父が何を生業にしていたのかわからないが、伊予水軍の流れを汲む海賊系漁師(どんな漁師?)だったのかもしれない。浅吉という名前はどうも堅気には思えないし。

ともあれ、浅吉さんの末っ子三男の久雄爺さんは同じ土地に住む川田ツルキさんという人と結婚することになる。ツルキさんは渡辺利平、ロクという夫婦の三男、渡辺新太郎さん(後に川田鶴蔵という人の養子となり、川田新太郎となる)とタミさんという人の長女で明治26年生まれ、祖父と同い年の嫁さんということになる。

そのツルキさんと久雄爺さんの間に生まれたひとり息子が山下義雄、僕の父というわけだ。しかしツルキさんは僕が生まれるはるか前、父が17歳くらいのころに病気で亡くなる。ツルキさんの享年は46歳。久雄爺さんはツルキさん亡き後、シゲ子さんという後妻をもらい、このシゲ子婆さんが、僕にとっての「ばあちゃん」で、血は繋がっていなくても、穏やかで優しく、いつもニコニコ微笑んでいた「仏様」のようなばあちゃんだった。シゲ子婆さんは久雄爺さんが亡くなって6年後、久雄爺さんと同じ88歳で亡くなった。

子どもの頃、我が家の仏壇には丸髷を結ったいかにも明治女という風情の人の写真と幼い男児の写真があり、「この人たちは誰なん?」という問いに「父ちゃんのお母さんと爺ちゃんと婆ちゃんの子どもよ」と答えてくれたのは母。そのときに初めて「ばあちゃん」は爺さんの後妻であることを知った。

丸髷の人はツルキさん、幼い男児は久雄爺さんと後妻のシゲ子婆さんの子どもの肇さん(僕にとっては、父とかなり年が離れた父の異母弟の叔父)で、食中毒で早逝したらしい。シゲ子婆さんが爺さんと結婚する以前のことはよく知らないが、彼女は久雄爺さんの6つ年下で、後妻として嫁いだときは既に中年期、肇さんは当時としてはかなりの高齢出産で授かった子ども、シゲ子婆さんの悲しみは相当深かったのではないかと想像する。

久雄爺さんは、ツルキさんと結婚すると四国を離れ、福岡の姪浜というところに行き、父はその地で生まれ、昭和の初め、父が小学校に入学する頃に下関に居を構えることになる。祖父の下関での勤務先は地元造船所、退職して地元信用金庫の守衛のようなことをやり、その後お茶の小売業を始める。父は会社員だったが、僕の実家にはお茶の店舗があり、祖父の商売を母が手伝う形で商売はそこそこ繁盛したようだ。

祖父が亡くなり、父は会社員を退職した時点で、お茶の小売業に従事したが、万事器用でやり手だった祖父と違い、父は商売の才覚はなく、その内商売は止め、油絵、俳句、グランドゴルフ、母との旅行等、趣味悠々の老後の生活に入るというわけだ。

ところで、久雄爺さんとツルキさんの結婚は、いわゆる格差婚であったらしく、「庄屋の娘、あるいは網元の娘」ツルキさんと恋仲になった「小作農、あるいは貧しい漁師」の倅(かどうだか知らないが)久雄爺さんは、半ば駆け落ち同然で故郷の四国愛媛から遁走したという話(おそらく母から聞いた話だろうが)を子どもの頃、聞いた記憶がある。明治版「ロミオとジュリエット」。

先日、兄の家で久雄爺さんの戸籍を確認していたら、父が出生(大正10年3月)してから、戸籍上で認知する(昭和2年)まで7年ほどの空白があることに気がついた。この空白期は久雄爺さんがツルキさんと結婚してすぐに四国を出て、福岡、下関と転々とした時期に符合するところがある。ツルキさんの実家である川田家は久雄爺さんとツルキさんの結婚をすぐには認めなかったのかもしれない。ごく普通の結婚ではなかったかもしれない印象はある。

現在、ツルキさんの遺骨は我が家の先祖代々の墓に眠っているが、その墓に父の実母であるツルキさんの遺骨が納骨されたのは父が老境にあった比較的最近のこと。ツルキさんの縁者が祖父の再婚にこだわって、なかなか祖父に遺骨を渡そうとしなかったことは、父の自費出版本に少し書かれている。実母の遺骨をようやく先祖代々の墓に眠らせたのは父の手によるものだった。そもそもツルキさんが亡くなったとき、久雄爺さんがなぜその遺骨をツルキさんの縁者の元に返したのか、久雄爺さんがツルキさんの親族になんらかの負い目があったと考えるのが自然だ。

しかし、何よりものミステリーは、これは僕自身が以前から漠然と思っていたことだが、祖父と父とは外見、性格、何からなにまで似ていないということ。祖父は小男で痩躯、父はどちらかと言えば現在の僕のようなややぽっちゃり型、祖父は父のように禿げることもなく、のんびり型の父の性格に比べ短気な気質で、不器用だった父に比べ、大工仕事、盆栽と手先が器用。自転車もよく乗れなかった運動音痴の父に比べ、祖父はバイクが乗れることが条件だった就職先で、初めてなのに見事にバイクを乗りこなした(死ぬ直前まで90ccのカブを乗り回していた)という逸話があった。父の実母のツルキさんの写真は2枚ほど残っており、一見して父の面影を感じる。

で、僕と兄は父に似ているところが当然あり、父の息子であることは疑いようもないが、二人とも祖父には似ているところが、少なくとも外見上ほとんどないように思う。僕はそこそこ小器用なところがあって、父は不器用な方だったのでそこは祖父に似たかもと思っていたが、母も手先が器用なところがあった。

祖父は、当時としては義務教育ではない高等小学校まで行ったことが自慢で、頭は良い人だったと思うが、教養があるような人ではなかった。ひとり息子の父を田舎に住みながら東京の大学まで出したことで、父を大切に育てたということは言えるが、僕の記憶では、祖父は大人しい父を相手にしょっちゅう小言を言い、時には父ののらりくらりに腹を立て、たばこ盆を投げつけるなどの気性の荒さを見せていた。孫たちにはごく優しい祖父であったが、父に対しては最後まで厳しかったような。

そんな祖父が亡くなってから、父は生き生きと生活を楽しむようになったフシがある。父は祖父の本当の子どもなのか、もしそうでないとしたら、背後にどんなドラマ(ツルキさんが何らかの事情で私生児としての父を身ごもり、そのツルキさんの子を7年の時を経て父親として認知した祖父、とか)があったのか、そのあたりが我が家系における目下の最大のミステリーということ。

もはや父にそのあたりのことを聞くことはできないが、母はどこまで知っているのか、その母もだいぶ認知の傾向があるから、よくわからなくなっているかもしれない。まあ、こういうことはよくわからないままでいいようにも思う。


画像左:写真の裏に昭和19年2月10日撮影とある。祖父52歳の頃の写真。なかなかダンディーな祖父の姿だが、見れば見るほど、父にも兄にも僕にも似ていないように思う。
画像右上:父の実母のツルキさん。口元は父に似ている。
画像右下:祖父と後妻のシゲ子婆さんとの結婚写真。子どもの頃、この写真を見つけて、「ばあちゃん」に見せたら恥ずかしそうに笑うばかりだった。かわいいばあちゃんだった。

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