2011年8月15日月曜日

認識票肌よりはずす終戦日ー父の終戦


認識票肌よりはずす終戦日

父が亡くなる前、5年ほど前に自費出版した『波』という書名の句文集に収められた俳句のひとつ。大学を卒業するとほぼ同時(昭和17年)に軍隊に招集、中支(華中)方面に派遣され、昭和21年6月に復員するまでの4年間の兵役経験がある父にして、終戦日について直接的に詠んだ句はこれひとつしかない。

認識票とは兵士が肌につけるIDプレートのことであろうが、終戦に至り、これを肌から外したという、ごく素っ気ない句だ。やや難解な熟語を使うことが多い父の句にしてはあまりにもシンプルな句。

「肌より外す」という言葉に引っかかって、少し調べてみたら、旧陸軍の認識票というのは、「小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通して胴体にたすき掛けにして装着していた」(認識票 - Wikipedia)とのこと。兵士となれば「肌身離さず」装着することを義務づけられたのだろう。それを「肌よりはずす」ことの開放感はいかばかりであっただろうか。

父は戦争のことについて多くを語らなかった。もっとも、自分のことについてもあまり多くを語らない人だったが、子どもの頃、何かの話の流れで「父ちゃんがいた部隊の部隊長は、敵が来ると『みんな逃げろ! 逃げろ!』と退却命令を出すようなええ人やった」と笑いながら話してくれたことがあった。子供心に父は(穏やかな)反戦の人だったのかな、と思ったように記憶する。

あと、僕がビートルズに夢中になっていた中学生の頃、I Want To Hold Your Handを、♪アイワナホージューヘ〜ン、と歌っていたら、父が「哀れ補充兵、かあ」と笑いながら僕を茶化したことがあった。その時はいささかムッとしたが、ほぼ学徒動員だった父は世間知らずの補充兵であり、古参兵あたりの目の敵にされたのではないかと想像する。

父は復員後、住友生命(大阪本社)に入社が決まっていたが、当時の大阪はまさに焼け跡闇市の戦後混乱期で、その混乱の有様を見て、父は大阪に住むことを嫌い、住友生命を依願退職、故郷の下関の企業に就職することになる。そして、その企業は父が働き盛りのときに倒産し、父は中年期に再就職しなければならなかった。

これについては、母が「父ちゃんが住友に勤めていればもっとお金持ちになっていたかもしれん」と少し悔やんでいたことを思い出す。そうであれば、僕も芦屋あたりに居を構える「ええとこのボン」になっていたかもしれない。もっとも、父がそうしていたら、下関に生まれ育った母との結婚もなかった可能性が高く、僕は(少なくともこの世界での僕)存在していなかったであろう。

こうした父の歴史を正確に知ったのは、父が遺した句文集を読んでからのことで、つい最近のことだ。この本には自選俳句といくつかのエッセイが収められているが、大学時代の楽しい思い出は書かれてあっても、兵役に取られたことや戦争に関するエッセイは一切書かれていない。

派兵論梅雨のこの路地抜けられる

というのは、(穏やかな)反戦論者であったと思われる父の句。イラク戦争の折、右よりの政治家が展開した「派兵論」についての父の見解が示されていると僕は感じた。硬直した議論の衝突より、穏便に「抜けられる」方策を考えるというのが父なりの「反戦思想」だろうか。

父の句文集の発行日は平成18年の今日、8月15日となっていた。


画像左:父の旧制中学(下関中学=現下関西高、中退したが僕も同校に在籍した)時代の写真
画像中:父の東京商科大学(現一橋大学)時代の写真
画像右:父が遺した句文集『波』表紙

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