2011年8月11日木曜日

父の臨終〜葬儀顛末日記 ーその3ー


2011年08月01日(月)
7時頃起床。晴天夏日。僕のオクさんを加え、6人で会館近くのファミレスで朝食。甥がロコモコを注文したので僕もそれにしようと言ったら、兄が呆れたように「おまえはいつまでたっても若者メニューだな」と。そう言う兄は、いわゆる日本の朝定食系を注文。食べ物の好みが若い頃から変わってきたという感じはない。僕はいまだにポテチとコーラが大好きだったりするし。

葬儀会場入り口に「メモリアルコーナー」というのを設置してもらえるということで、実家に行き、父にまつわる品々(自費出版した句集、俳句の賞盾、俳句短冊、古い写真、母を描いた油絵等、帽子、愛用のステッキ、得意だったグラウンドゴルフのクラブ、等)を会館に持っていく。それらの品々を参列者に見てもらうためメモリアルコーナーに設置、レイアウトした。僕が死んだときは当然ここに愛用のウクレレが置かれる感じか。ギターだとややでかすぎるが、ウクレレは棺にも楽に入るので、天国に持っていくのに便利だな。

午後、早めにオクさんとタクシーで母のいる特養へ向かう。母に、以前あつらえ、今回初めて着ることになった黒のワンピース、ジャケット付の喪服を着せる。母はすでに自分ひとりで衣服を着ることはできない。黒の短靴も用意していたが、靴が小さく(老齢の母の足にむくみがあるのか)履かせるのが難儀だった。母が持っていた黒真珠のネックレスもつけてあげた。

前夜はほとんど眠れなかったと言う母、出発前、特養の職員に血圧、脈拍を計ってもらったが、血圧は高め、脈拍もいくぶん早かった。父の死で精神的に一番ダメージを受けているのは、父と長年連れ添い、頼り切っていた母だろう。

夕刻、特養に予約していた介護タクシーが来たが、小型だったため母とオクさんを乗せ、僕はバスで葬儀会館に向かった。会館に着き、会館の服泊施設のシャワーをさっと浴び、わさわさと式服に着替え、黒ネクタイを締め、葬儀会場に行ったところで、駆けつけてくれた母方の親戚、僕の叔父、叔母、いとこたちと会う。いとこたちと会うのは実に祖父の葬儀以来、30年振りくらい。

午後6時、通夜がスタート。シンプルながらなかなか素敵な祭壇だった。父の遺影はあらかじめ兄と相談し、父が米寿の時の帽子を被った写真を、僕がインクジェットの画材用紙に半切りサイズにプリントアウトしたものを使用した。

僧侶の読経の後、参列者への挨拶は喪主である兄が行った。通夜終了後、通夜ぶるまいの席で久しぶりに会ったRちゃん、S君のいとこたちと歓談。お互い年を取ったが、話し始めれば一緒によく遊んだ子どもの頃の話しぶりになる。懐かしいことしきり。

オクさんに介護タクシーで母を特養に連れ帰ってもらい、僕は親戚のいとこたちの中で一番年下だったS君(二児の父親で大阪に住み、今は立派な会社の取締役)と子どもの頃の話に花が咲き、意気投合、会館の部屋で差し向かい午前2時過ぎまでしこたま飲んだ。

2011年08月02日(火)
葬儀当日。さすがに前夜の深酒が残り、やや辛い起床となったが、体調はまったく問題なく、心配していた腰の調子も問題ない。これも父のご加護か。

参列者全員で会館が用意した「おとき」を頂いた後、タクシーでオクさんと母のいる特養へ。職員に既に喪服を着せてもらっていた母は、昨夜はそこそこ眠れたと言う。血圧も正常。

9時過ぎ、今度は大型の介護タクシーが迎えに来て、オクさんと二人で母と同乗、会館へ向かう。母は悲しげな表情をしていたが、昨日よりはだいぶ落ち着いた感じだった。空はピーカンの夏空、帰省して以来晴天夏日が続く。

会館に兄の長男の嫁さん(5月初めに女の子を出産。このときくらいから父は身体に変調を来し始めたが、まだ意識はしっかりしていた。父からすればひ孫にあたる赤ちゃんの誕生を喜んだことだろう)が駆けつけてきた。

10時から葬儀、曹洞宗住職父子が読経。事前に、父へのお別れの言葉を僕が担当することを告げられていたので、僧侶の読経中、さて何を父に語りかけるか、考えていた。耳が遠かった父だったので、とにかく大きな声で語りかけようと思った。

父の遺影を前に、「父ちゃん、聞こえるかね? 父ちゃんは耳が遠かったけえ、大きな声で話します」と、おそらく会場中に響き渡る声で語り始めたと思う。僕も歌うたいの端くれ、大きな声を出すのは得意だ。

父には、僕たちを待っていてくれたことに感謝し、おそらく気がかりであろう母のことを、兄とともにしっかり見守っていくことを、生前の父に語りかけるように下関弁丸出しで、それは大きな声で伝えた。泣くまいと思ったが無理だった。

その後、参列者全員で父の棺に花と共に父の思い出の品々を収めた。僕は父の部屋で見つけた使い古された感じのある日本の名歌、歌謡曲の歌本を納めた。父は不器用で楽器はできなかったが、歌を歌うことは大好きだった。その資質は僕が引き継いだ。

出棺となり、兄は位牌、僕は遺影を抱いて、何ともコンテンポラリーな白いリムジン風霊柩車に乗り、会館から実家を周り、火葬場へ。オクさんと甥が母と共に介護タクシーで、他の参列者はマイクロバスで火葬場に向かった。

前日が友引だったこともあって、火葬場は混み合っていた。2時間は待たされたか。父の火葬が終わり、参列者全員で父の骨を拾う。斎場の担当者がまず「胸仏」(胸骨の一部、仏が安座している格好に似ているので「胸仏」と言うが、「のど仏」とは違う。)を拾い、小さな骨壺に納めた。この「胸仏」は曹洞宗の本山、永平寺に納めるのが慣わしと聞いた。

火葬の後、再び会館に戻り、初七日の法要。その後、親族で会食。散会。兄の長男夫婦とはここでお別れ。兄夫婦、兄の次男、オクさんとで実家に。父の遺骨、位牌を実家の仏壇に設置。父と母がケアハウスで暮らしだして、7年間くらい空き家状態だった実家が久しぶりににぎやかな夜を迎えた。全員で父の遺骨とともに就寝。


画像左上:祭壇全景。豪華なものではないが、個人的にはこれくらいのものの方が好ましい。父の戒名は「義翁理葭居士(ぎおうりかこじ)」、父の名前の義雄の「義」、会社員時代は主に経理の仕事をしたので「理」、父の俳号が「葭生」(「かせい」、「よしお」と訓読みもできる)だったので「葭」のそれぞれの字を組み合わせた。「葭」は植物の葭(よし)、思えば風にそよぐ葭のように生きた人であった。

画像右:父のメモリアルコーナー。父と母が並んで写った写真額、父の幼い頃から学生時代、結婚式の写真をボードにレイアウト。右下にあるのは、母が台所仕事をしている様子を、父が描いた油絵。自筆短冊の俳句のひとつは、「春めくや知らぬ道から歩きだす」。どちらかと言うと無口な父であったが、ひょうきんなところがあった。

画像左下:白い霊柩車。プリウスか。最近は昔よく見かけた「宮付」の霊柩車はとんと見かけない。

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