2011年8月9日火曜日

父の臨終〜葬儀顛末日記 ーその1ー

2011年07月29日(金)
午前6時過ぎ、一足先に帰省し、父の病院にいる兄からの電話で起こされる。容態は悪く、できるだけ早く現地に向かうようにとのこと。ばたばたと支度をし、午前10時33分新横浜発の新幹線に乗車。

乗車中、兄から携帯に電話あり、「おまえは間に合わないかもしれない」と.。「待ってておくれ、父ちゃん」と何度も胸中で念じながら、ようやく夕方5時頃、下関のかなりローカルな地域にあり、海に面している病院に着く。前回の帰省最終日、移送された緩和ケア病棟の一室に父は入院していた。

父の病室に入ったとき、父は酸素吸入器を装着され、口は大きく開き、肩で息をしている状態だった。前夜遅く兄が父を訪ねたときからこの状態だったとのこと。呼吸に合わせ顔が動くので、駆けつけた僕を認識し、頷いてくれたかのように思った。目をうっすらと開けている。声をかけ、顔を近づけると瞳がわずかに動き、僕を認識しているようにも思えた。言葉を発するようなことはもちろんなく、呻くような声も立てない。ただただ父の懸命な息づかいだけが聞こえる。父は僕を待っていてくれた。

父の手を握ると熱く、40度近くの発熱があると兄から聞く。一見、苦しげな呼吸だが、表情は穏やかで、医者は本人はそれほど苦痛は感じていないはず、と言う。血圧低下はまだ見られず、臨終直前であることははっきりしているが、どのくらい持つのか、こうした状態で1週間近く生きた例もあるとのことで、臨終予測については、はっきりしたことは言えないと、担当医。

とりあえず急変は見られない父を病室に残し、兄と病院近くの中華料理店で夕食。八宝菜、蟹炒飯を食べ、生ビールを飲む。兄と二人、差し向かいの食事は記憶がないくらい希有なこと。

父の病室は個室だったので、兄は病室に備えられているソファベッド、僕は病院から簡易ベッドを運び込んでもらい、兄弟で父を囲んで寝る態勢を整え、病院内のシャワーを浴びる。

一時間おきくらいに、看護士が来て父の容態をチェックする。足裏に若干の紫色の斑点(チアノーゼ)が出てきて、身体に酸素が行き渡らず、死期が近いことを告げられる。また、手先、足先の体温の低下も臨終期の判断の目安になると言う。父の手も最初に握ったときよりも冷たくなってきた感じがした。

2011年07月30日(土)
午前2時頃、父の表情が少し苦しそうに変わったように思い、ナースコール。下血あり、血圧低下、呼吸が浅くなる。父の耳元で「明日、母ちゃんが来るけえ、もうちょっとがんばって!」と告げると、父は大きく深呼吸をし、呼吸が深くなった。父が言葉を認識したとしか思えない。

その後、少しウトウトとしながら父を見守っていたが、朝を迎えるまで容態の急変はなかった。夜明けを迎えた戸外に出て、病院喫煙所でタバコを吸った。近くに木々が茂っていて、豪雨のような蝉時雨を聞く。あんなに大音量の蝉の鳴き声を聞くのは生まれて初めて。感じ入った。

朝になり、父の足はだいぶ紫色に変色していた。冷たくなっていく父の手足をさすりつつ、足の形も手の形も僕にそっくりだなあ、と思った。僕の手足が父にそっくりだと言うべきか。父の手を取り脈をとろうとしたが、脈拍はかぼそくほとんどわからなくなっていた。

9時過ぎに、兄が父のいたケアハウスの職員さんに連絡、車椅子の母を父の病院まで連れてきてくれた。母は長居はできない。母は父に語りかけ、手を握り、涙ぐみながら父にこれまでの感謝の言葉を述べ、十分に面会を果たしたところで、そろそろ病室を後にしなければ、というときに父の容態が変わった。

浅く、間隔が長くなりつつあった呼吸がいったん止まり、大きくのど仏が動いた。もう一度、静かに呼吸をしたかと思うと、大きく開けていた口がゆっくり閉じ、完全に呼吸停止の状態になった。それと同時にうっすら開いていた目も閉じられた。10時50分頃。医者を呼び、心肺停止を確認、医者から告げられた正式な死亡時刻は7月30日午前10時56分。享年90歳と4か月あまり。母、兄、僕に手を握られながらの最期だった。

しばらくしてオクさんに電話。彼女は明日こちらに来ることになる。

父の死亡が確認されてからが慌ただしかった。兄があらかじめ決めておいた葬儀社へ連絡手配。すぐに病院の看護士の手により、遺体の清め、ファンデーションを使っての死化粧が始まり、白衣を着せていく。その様子を横目で見ながら僕は父の病室の整理にかかった。父の衣服下着類、所持品をまとめ、病室を後に。

兄の長男が直後、病院に駆けつけてきた。甥はわずかばかり、彼からすれば祖父である父の死に目に立ち会うことはできなかったが、病室に安置された父の遺体と対面することはできた。

兄は母の住む特養に母を送り届け、父の遺体は葬儀社の車で葬儀会館に運ばれ、僕と甥は父の病室内の所持品を運ぶため、いったん実家に向かい、それから父が安置されている葬儀会館に向かった。多くの病院の医師、看護士、職員の方々が父を見送ってくれた。

葬儀会館に到着すると、兄嫁が到着していた。ほどなく父が檀家である曹洞宗の住職が来て、父が安置されていた部屋での読経(枕経)をあげてもらった。住職はまだ若い陽気な感じの話し好きな方で心が和んだ。

その後は、葬儀社との打ち合わせ等でばたばたとしたが、葬儀の方法について基本的には喪主である兄との意見の相違はないので、スムーズに事が運んだ。父は一人っ子で既に近しい親族はおらず、母と息子二人とその家族、母方の親族とごく身内だけで執り行う葬儀故、シンプルに徹した。それが父の望むことだと信じてもいる。

とりあえず、通夜、葬儀の次第は整い、夕刻、兄、兄嫁、甥とで夕食に出かけようとしたが、そのときに会館の職員が会館内に誰もいないことに気がついた。地方ののどかな場所の葬儀会館であるが、不用心に驚いた。父をひとり残して外出することはできない。

30分以上も待たされ、ようやく職員が平謝りで戻り、下関駅構内にある食堂に向かい、食堂に着いて注文を取ろうとした頃に、兄の次男が駅に到着、グッドタイミングに落ち合うことができた。葬儀会館で待たされなければ、兄の次男と一緒に食事はできなかった。これは父の導きだと思った。兄の次男を加え、全員で食事、僕はカレイの唐揚げ等を食べた。美味だった。

兄の家族全員と僕とで葬儀会館に戻り、僕は父が安置されていた部屋で、父の棺と並んで布団を敷き、寝た。夢も見ず、ぐっすりとよく眠れた。

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