2011年4月16日土曜日

父・卒寿の祝いをかねての介護帰省2011春@猫岬ケアハウス滞在記 その6

3月27日(日)

普段は夜型の僕も「老人タイムゾーン」三日目ともなると、そこそこ早くに目が覚めた。下関に帰るといつも思うのだが、本州西端ということで、関東圏より朝が来るのが少し遅い。土地の特徴的な気候なのか、関東のように朝から快晴というようなことはあまりないように思う。ぼんやりとくぐもった感じの朝が多いような。この日もそんな感じの朝。

9時頃、母のいる特養を兄たちと訪ねた後、全員で再度、父の部屋に行き、甥のお嫁さんからプレゼントされた花を父の部屋の棚の上にいけたりしながら、しばし談話。兄夫婦と甥たちはそれぞれ他の用件有り、この日の午前中でひとまずお別れ。僕はこの翌日、母を定期検診のため病院に連れていくというミッションがあるため、しばらく滞在を続けることになる。

兄たちが去った後、父の部屋を訪ねたとき、父は財布を探していて、よたよたと部屋をうろつきながら「どこに置いたかいのう」と。一緒に探してあげたら、引き出しの中にちゃんと入っていた。父は、財布に限らず、始終、何かを探していて、父ほど顕著ではないが、僕もその血筋を引き継いだところがある。おれもああなるな、と。

この日の夜も、父は棚の上の何かを探していて、その棚の上に置かれた花束をいけた花瓶を見事にひっくり返してしまった。部屋の床は水浸し。また、その翌日だったか、部屋を訪ねると「あんたにもらった足袋ソックスを冷蔵庫に入れとった」と。足袋ソックスはオクさんが父へのプレゼントとして僕に持たせたもの。「なんで、そんなもの、冷蔵庫にいれるんかね?」と聞けば、「うーん、どうしてなんかいね、わからん」。

この日は、午後からケアハウスからバスを乗り継ぎ、小一時間かかる実家に行ってみた。母の欝病のため、両親がケアハウスに入居したのが05年秋だったから、実家は主なき状態でもうかれこれ6年が経つ。父が元気なときは、ちょくちょく様子を見に訪れたり、ある程度の管理もしてきたようだが、最近はほぼほったらかし。今後、この家をどうするかという問題もある。

実家は僕が中2のとき新築したから、築40数年。父は「良い材料を使っているから、まだまだ充分に住める」と言うが、高齢の父が既に充分に管理できないため、借家として人に貸すこともできない。父にとってはケアハウスはとりあえずの仮住まいで、いずれ実家に帰ってくるという気持ちはあったのかもしれないが、今ではそれはない話。

いつか父は「あんた、あそこに住まんかね?」と僕に言ったが、僕にはその気はない。17才のときに離れた実家周辺に友人、知人などもいないし、いまさら、という気持ち。僕のオクさんのご両親がやはり老老介護状態で横須賀に住み、オクさんはちょくちょく手伝いに行っているという事情もある。ただ、今回の震災、原発事故で、ほんの少し頭の片隅には。下関は地震に関しては比較的安全な場所。

住む人がいないと家はすぐに荒れると聞くが、帰省のたびに、実家の様子を見ることにしていて、いつも特に変わりはなく、そこだけは時間が止まっているかのよう。家財道具もまだほとんど残っていて、震災被害者の住まいとして使えるなあ、と思ったりもした。ただ、僕は遠くに住み、父がいよいよ高齢なので、現実的にはそれは難しい。

父から鍵を預かり、実家を訪ねると、今回も特に変わりはなく、今回、初めて気がついたのだが、庭にそこそこ大きな梅の木があり、紅梅が咲いていた。ケアハウスに戻ってその話を父にしたら、「あんたがおるときは小さな木だったが、だいぶ大きゅうなったね」と。そりゃあそうだ、40年以上も経っているのだから。






画像上:あるじなき古家の庭に咲く紅梅
画像中:実家を訪ねた帰り道、バスには乗らずしばらく歩いた。僕がいた頃の町の様相は大きく変わったが、小さい頃から変わっていない建物もある。ここは、当時はたばこ屋&お菓子屋だった。看板も当時のまま。ここでよくアイスなどを買った。お店は閉店状態だが、今もひっそりとどなたか住んでいらっしゃる模様。
画像下:関門トンネル、西側の入り口付近。小学校のとき、好きだった女の子がこの坂の上に住んでいた。坂を上がっていてちょっとドキドキした。センチメンタル散歩。

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