2010年5月30日日曜日

「原人クラブ」の夜は更けて



昨日は我がバンドメンバー、ノダっちから話に聞いていて興味を持った「原人クラブ」のライブを見に中央林間「パラダイス本舗」へ。

「原人クラブ」はリーダーで、笛系、ホーミー、その他打楽器など担当のレオナルド藤井さん、ジャンベ、カリンバ、スリットドラム 、その他打楽器担当のカシムさん、オーストラリアのアボリジニが吹く「ディジュリドゥ」という長い長い笛を終始、「ブォ〜〜〜〜〜〜」と吹いて頑張ったレオナルド藤井さんの息子さん(高1)に、最近「原人化」したノダっちのリゾネーターマンドリンが絡むというメンバー構成。もうお一人、メンバーがいらっしゃるとのことだが、昨夜は都合で参加できなかったとのこと。

「原人クラブ」の紡ぎ出す音楽は、簡単に言うと(なかなか簡単には言えないが)、無国籍民族音楽系フリーミュージック、という感じだろうか。ジャンベで基本となるリズムを刻み、スリットドラム(これね: http://www.rakuten.co.jp/ototebako/642113/642115/)で基調となる音調を創り、通奏低音としてのディジュリドゥの「ブォ〜」、そこに各種打楽器、笛系楽器、それに今回はノダっちの粒だったマンドリンの音色が積み上げられていく感じ。

曲想によるある程度のお約束はあるものの、ナチュラルな楽器によって生み出される音は、あくまでフリーリーに重ねられ、その不思議なハーモニーは吹く風が揺らす草原のざわめきにも似て大変心地良い。

聞かされる類の音楽ではなく、サウンドの内側にいて参加してこそさらに醍醐味があるような音楽。結局、僕も我慢できず、邪魔にならない程度にお店のウクレレでちょこっと参加した。

終演後、パラ本のお客さん全員を巻き込んでの「合奏」となり、これぞ音を楽しむ音楽の原点。大変楽しい時を過ごした。リーダーのレオナルド藤井さんとも同郷(山口県下関市出身)ということもあって、すぐにフレンドリーになったのだった。僕もこの夜、「半原人」くらいにはになれたかな。


画像左:ついついウクレレを手に参加してしまう手前のワタクシ。(Photo by Yumiko-san)
画像右:「原人クラブ」使用楽器群。僕も含め、みなさん、見ると手にとって奏でたくなるものばかり。中央にある青いホース(「インディアン・ブルーホース」とレオナルド藤井さん命名、これ実は浮き袋なんかを膨らませるポンプのホースらしい)がホントに不思議な音階を奏でるんだ。(Photo by Yumiko-san)

2010年5月29日土曜日

When She Was Just Seventeen



入院中の母に見せたいものがあって、それはまだちゃんと見せていなかった母の古い写真の数々だった。30数年前、結婚した頃、オクさんと一緒に帰省したときの写真や、それから何度か帰省したときの母を写した写真、父と母が何度か上京したときの写真、6年ほど前の母が欝病に罹る直前に帰省したときの写真(まだ笑顔に溢れた表情の)などだ。

今回の帰省前、それらに、昨年の父の米寿祝いのときの写真や僕の最近の写真を加え、リプリントし、ベッド脇に置いておけるような写真額ファイルに収めた。心も身体も元気だった頃の母の姿を見せることによって、少しでも母の気持ちを明るくすることができるかもしれない、と思ったのだ。

母を病院に訪ねた一日目、その写真額ファイルを母に見せつつ、「これは花祭りのとき、これは墓参りのとき、覚えとるかね?」などと聞いたが、母は「あまり覚えとらん」とさしたる感慨もなさそうにぼんやりと、それでも一枚一枚じっくりと写真を眺めていた。

写真の中に若い姿の僕のオクさんや兄嫁や伯母などがあると「これは誰?」と聞くので、「伯母さんやないの、母ちゃんのお姉さん、忘れたの?」と言えば、悲しげな表情で「忘れた」と。

さすがに自分や父の姿を見て「これは誰?」とは言わなかったが、古い記憶も怪しくなっていることを知り、また、それらの写真を見せても、さして母の表情が変わらなかったことに僕はちょっとがっかりした。


帰省二日目の夜、父とその話をしながら、もっと古い写真はないのかを父に訊ねた。随分昔に、僕の幼い頃の写真は何枚か持ち帰り、手元にあるのだが、父や母の若い頃の写真を子ども時分に見た記憶がある。しかしそれはおぼろげな記憶であり、もう一度それらの写真を見たくなったのだ。

父は「ケアハウスの部屋にはないが、実家にまだあるだろう」と言った。ケアハウスからバスで20分ほどにある実家は、父と母がケアハウスに入居した5年ほど前から空き家になっていて、まだ多くの家財道具や荷物類を残したままの状態だ。僕は子どもの頃に見た記憶のある母の若い頃の写真を探すため、翌日の午前中、実家に向かった。

実家は、僕が中学のとき建った築40年以上の古い家だが、まだまだ家屋自体はしっかりしており、父が時折来ては細かい修理などをさせているようで、家主が去った後も朽ちた感じはない。ただ、上がり込めば、そこは時間が止まった空間で、上京以来あまり帰省することがなかった僕にとっては、中学から高校にかけての思い出がよみがえる場所だ。

古いアルバムを保管している場所をはっきりと思い出せなかった父だったが、僕は場所に心当たりがあり、母や父の若い頃の写真を収めたアルバムはすぐに見つかった。母の幼い頃、小学校、女学生の頃の写真や、父の子どもの頃、学生時代の写真、父と母の結婚写真、祖父母の結婚写真まで見ることになった。母と幼い僕を写した写真もけっこうあり、その内の何枚かは初めて見るようなものだった。

これこそ、今の母に見せるべき写真だと思い、その家族の最も古い写真を収めたアルバムを抜き取り、その日の午後、母の入院する病院まで持っていき、それを母に見せたのだった。おそらく母も長い間、それらの写真を見ていないと思われた。

最初に父と母の結婚写真を見せたとき、母の表情が穏やかに緩んだ。「ああ、これはT川(母の生家)の家よ。この写真を撮る前にようけ泣いた」と母は言った。「結婚するのが悲しかったんかね」と聞けば「そうやったようやね」と母は頷いた。言われてみれば角隠しを被った母の目はやや腫れぼったいように思えた。

それから母は、アルバムをめくりながら、4歳か5歳くらいの母のそばに立つ男の子を「この子は幼なじみの子」と言い、小学校のクラス写真の中の母をすぐに言い当てた。母の生家の庭に佇む若い母を写した写真の後にいる猫を指して「これは飼っていた猫、猫が好きやった」などと僕が促す前に語り出した。

「これは結婚する前に行った洋裁学校の仲間と一緒に写った写真」、「これはあんたが幼稚園のときの写真やね、あんたはここにおる」、などと言いながら、「これ、可愛い」と僕が5歳くらいの、デパートの食堂かどこかで、ストローでジュースを飲んでいる写真を指して少し微笑んで言った。

父の髪がまだふさふさとあった時代(父は若禿げ傾向のあった人)の写真を見せるとき、「僕は父ちゃんの髪がこんなにある姿を初めて見たかもしれん」と言うと、母はかすかに声を上げて笑った。祖父母の結婚写真(これは僕は初めて見た)を「これはええねえ」と微笑んで言った。

少し驚いたのは、僕が小学校の頃の友人と写った写真があって、その友人の名前を僕自身がよく覚えていなかったのを「これ、○○君やろ?」と母の方が言い当てたことだった。「そうそう、○○君や。よお覚えちょったねえ!」と僕は言ったものだ。半世紀以上も前の記憶の方が今の母にとっては鮮明になっているのだ。

古い写真を見ている間、母は少し饒舌になり、穏やかな表情をたくさん見せた。僕の心も少し救われた。僕は父にことわった上、そのアルバムを持ち帰り、一枚一枚スキャナーにかけ、退色や汚れ、キズをフォトショップで修正し、デジタル画像を作成した。僕がこの世界に存在する少し前の、遠いセピア色の時代の若い母に会ってみたいというおとぎ話を思う。


*アップ画像の写真の裏には青いインクで「チュン子、十七歳」と書かれてあった。母は1924年生まれだから、この写真が撮られたのは1941年、太平洋戦争勃発の年になる。「チュン子」というのは母の女学生時代のあだ名であろう。

2010年5月27日木曜日

母を見舞う


先週の火曜から土曜まで実家のある下関に母の介護帰省に及んだ。母は、父と住んでいた海を臨むケアハウスから、バスを乗り継ぎ片道1時間近くかかるやはり海の近くの病院に、今年3月初めから骨折治療のため入院している。

当初、耳の遠い父との電話での会話の行き違いから、ケアハウス内での転倒による腰部骨折だと思っていたが、実際はケアハウス関連の内科病院でのショートステイ最中での転倒事故による大腿骨骨折だった。

老人性欝病を患う母は、実家にほど近いその病院でのショートステイを勧められ、心身かなりの改善が見られた矢先の事故で、状況から介護士の不注意による事故との見方もあり、病院側もそれを認めたが、父や兄と相談、特に病院側の責任を問いただすことはしなかった。

ただ、リハビリなどに積極的になったとか、笑顔が見られるようになったとか、かなりの改善が見られた経緯を報告されていたので、事故がなければと悔やむ気持ちは残る。

ケアハウスに到着した翌日、父と共に母の入院する病院を訪ねた。足腰かなり衰えた父は全行程バスはきついらしく、行きはバスとタクシーを交え、帰路は着替えの荷物もあり、タクシーという手段を取った。ケアハウスから母の入院する病院まで往復1万弱、タクシーでちょくちょく通うには出費がかさむ。僕がそばにいて運転をしてあげることができたら、父もどんなに楽かと思う。

病院は市内中心地からだいぶ離れたのどかなところに立地しているが、最寄りバス停からさらに徒歩で7、8分かかり、車を持たぬ特に老人にはやや不便なところ。僕は都合3日間、この病院に母を見舞ったが、本数もあまり多くないバスを2回乗り継ぎ、待ち合わせ含め、片道ゆうに1時間以上かかる距離に辟易した。

ほぼ1年ぶりの母との再会であったが、母はほとんど寝たきり状態になっていた。僕を見ると微かに微笑んだように思う。初夏の陽光が差す病室のベッドに、いまだ冬物のセーターにベストを着込み、小さくうずくまっている母を見たら、泣きそうになった。

骨折は癒え、高齢者女性によく見られるという甲状腺機能低下、心不全傾向などあるが、他にシリアスな疾患はないとのこと。しかし、三度の食事、排泄、洗顔、入浴、リハビリの歩行訓練に向かうとき、看護士の介助なしでは自力でベッドから起きあがることはできない。ベッドの上で上半身を起こすこともできない。

というか、しようとしない。機能的には大きな問題はないようで、頑張ればなんとか自力で車椅子までの移動は可能のはずだが、それをしない。努力をしようという意欲はまったくなく、それは心の問題からだ。

看護士から「さあ、ここにつかまって。足を上げて」などと言われるが、指示に対して上の空、「次の晩ご飯はいつ頃かね」などと聞き出す。何度も促されてようやくそろりと動き出す。それでも、歩行訓練で補助具につかまってよたよたと歩くこともできるが、さんざん声かけされ、促され、指示され、ようやくなんとか。

歩行訓練が始まる前、看護士から「今日は何日ですか? 何曜日ですか?」などと訊ねられるが、「わからん、わかりません」と。「お昼は何を食べたの?」と僕が聞けば「忘れた」と。思い出そうと努力している感じではなく、考えてみることも放棄している感じ。

二日目もなんとか歩行訓練は行ったが、来訪三日目に、看護士がベッドで横たわる母に「ちょっとリハビリやりましょうか?」と声かけしたが、母は苦悶の形相でそれを拒んだ。そのリアクションに看護士もやや鼻白み、「じゃあ、今日はやらなくていいでしょう」と。まったく意欲のない患者に対応する看護士の気持ちも理解できる。

初日、担当医によるカンファレンスに出席した。入院生活は食欲もあり、大きなトラブルもなく経過しているが、リハビリに対する意欲が見られないことから、リハビリによる大きな改善は期待できないだろうこと、依然として「依存心が強い」ということを指摘された。

しかし、面会途中、母はおむつの中に排泄したのだが、その始末を看護士に頼むためのコールボタンを握りしめたまま、ずっと押せないでいるのが母。日常生活におけるすべての行動において決断できず「どうするの、どうしようか」と堂々巡りの気持ちを抱き続けているわけで、依存心が強いというより、何もかもどうしていいのかわからないのが母。

変化を嫌い、初日、冬物のセーターを着ていたのも、自閉症者の特質に似た「こだわり」で、看護士の再三の春物への着替えを拒んできたらしい。洗濯物を持って帰ろうとすると「置いていって」と悲痛な声で言われる。入浴の度に「着るものがなくなっていく」という妄想からくるものだ。

物がなくなっていく、という不安はかなり大きく、僕に箱入りのティッシュや化粧水やら、長袖のコットンのシャツやらの購入を頼み、翌日僕はそれを叶えたが、ベッド脇の引き出しに買ってきた物をしまいこむとき、新しいティッシュ箱が3箱、未使用の化粧水ひと瓶、長袖シャツも2,3枚あるのを見つけ、「あるやないの」と言えば「すぐになくなるから」と母は言った。

口の周りや足先に痺れがあると訴えるので、「痺れだけかね? 痛いところはある?」と聞けば、「身体中が痛い」と眉間に皺を寄せ、ぼそぼそと言った。鬱からか甲状腺機能低下からか、いよいよ表情が乏しくなっていたが、悲痛の表情はしばしする。それがなにより忍びなかった。

最終日別れるとき、思いついてベッドの母のすぐそばに半身を横たえ、デジカメを前方に掲げ、二人の写真を撮ったが、母はそれをひどく嫌がったことが、またチクリと心に堪えた。帰路、病院裏手に回り、防風林で遮断された海岸まで足を伸ばし、その日は良く晴れた夏日、夕方の陽光に照らされた海を見ていると涙が込み上げて仕方がなかった。

今月末にも母はこの病院の介護病棟に移棟し、最終的にはケアハウスのすぐそばの特養ホームに入所することになっている。特養へ入所は空き待ち状態だが、第1優先なので、そんなに待たずとも良いだろう。新しく綺麗な特養ホームは、今回見学したが、のべつ大きな声で唸っているご老人もおられ、いよいよ「終末期の居所」の印象を持った。

父とのケアハウスでの同居生活も続けることができなくなったことから、母の特養ホームへの入所と同時に、父も夫婦用の広い部屋から、単身者用の部屋に移らねばならない。そうした手続きや諸々の作業を父一人ではできないことから、兄か僕かがまた近いうちに帰省することになるだろう。

そうなればまたひとつ、母と父の人生に句読点が打たれる。僕にとっても今回の帰省は流れてゆく生活を区切るカンマになった。「やれやれ」から「さてさて」へのカンマ。

今回の帰省で父の母に対する鷹揚さ、寛容さ、優しさを多く感じた。母が誰よりも頼りにするのが父。まだ頭はそこそこしっかりしているが、その父も89歳、かなり衰えた。耳が遠く、補聴器はあるのだが付けるのを面倒がり、会話はスムーズにいかないが、父とたくさん話をすることができたのが今回の収穫、良きことだった。


*画像は母が入院している病院裏手、すぐそばを臨む海。響灘と称されるところ。護岸壁があり、浜辺には容易に下りられない。陽光の下、人っ子一人いない砂浜が広がる。

2010年5月16日日曜日

さあ、煙草に火をつけて


先週金曜日の元はちみつぱい・ギタリスト本多信介さんとのジョイント・ライブ@菩南座、無事終了しました。

当日、誠に地味な動員ながら、オールド・バット・グッド、70年代な菩南座空間に「信介ワールド」がぴったりとマッチし、熟成されたチーズを肴に芳醇なオールドワインを味わっているような、しかし反面、ポテチをバリバリいきながら、ビールを飲んでいるような、繊細さとぶっきらぼう、リリシズムと大らかさ、クールとホットが入り交じるまったりと美味しい本多信介の音楽を満喫できた。僕が今まで見た中で一番良かったですよ、信介さん。

今回、僕は「露払い」としてウクレレ一本、ソロでやる予定だったが、遠路はるばる我が「猫町ジャイブ」のベーシスト、フジタヨシコが駆けつけてくれ、急遽のユニット「藤山コンビ」が実現、何曲かコーラス&ピアニカで参加してくれた。ありがとう、よっちゃ。

愛しの猫、ボブちゃんを亡くされて消沈されていた菩南座店主・太郎さんも、穏やかな笑顔を見せてまずまずお元気そうで何よりだった。ボブちゃんはお店の傍ら、小さな露地スペースに春の花とともに埋葬されていた。「墓標みたいなのは立てないんですか?」と太郎さんに聞いたら、「ここは大家の土地だからね……」と淋しそうに太郎さんは言った。元気を出してまだまだバリバリのロック爺さまでいてくださいね、太郎さん。

Jun-chanも来てくれてありがとう。

なにより、この日の収穫は本多信介さんと「藤山コンビ」も加わり、「煙草露地」をセッションできたこと。ぶっつけのセッションだけど、すごく良い雰囲気だったな。動画も撮ったので、本多信介バージョン「煙草露地」を(信介さん、いいよね? と本人に断りもなく)本邦初公開。ついでに、「藤山コンビ」デビュー動画も。







ところで、7月に本多信介さんと「猫町ジャイブ」のジョイントライブが@下北沢で実現しそう。この件の詳細はまた日記にアップします。

さあ、煙草に火をつけて、火曜から介護帰省に参らねば。

2010年5月13日木曜日

僕は歌を歌うのが好きだ


が、歌詞カードを見ないでまともに歌える歌は(非常に)少ない。フォークをやってた頃は、フォークの人は歌詞カードを見ながら歌う人が多かったので、当たり前のように譜面台を立てて歌っていた。自分の作った歌でさえ、本気で歌詞を覚えようとせず、歌詞カードに頼っていた。

そうなると、歌詞をほぼ覚えていても譜面台を立ててないと不安になる。実際、覚えているつもりで急に歌詞が飛んでしまうことはプロの歌手でも経験はあるだろう。その誤魔化し方を巧みにやるのが(歌詞に限らず)、プロの条件のひとつかもしれない。

僕なんかは基本的に粗忽なので、まあ、よく間違える。年を取れば取るほど「抜ける」のが頻繁に起こる。人前で歌う機会があれば歌詞カードと譜面台は必須だ。あと、飲み会の流れなどで歌を歌う状況になったとき、歌詞カードがなければまともに歌えないので、そういう方向になりそうなときはカバンに歌詞カードのファイルブックを忍ばせていたりする。

中川五郎さんは「歌を育てる」ためには、人前で歌うこと、しかも歌詞を見ないで歌うことを自らに課していて、彼のレパートリーに「1923年福田村の虐殺」(全23番25分!)というとても長い歌もあるが、それも一生懸命歌詞を覚えて歌詞カードに頼らず歌うのだ。

彼も演奏中、急に歌詞が出なくなることはあるようだが、それでもなんとかその場を乗りきり、決して歌詞を見ながら歌うことはしないようだ。言葉を大切にする歌い手としての矜持というところだろう。耳が痛い。

あと、ロックのボーカルの人たちは歌詞カードは見ないでやるのが基本ですね。ま、これは見た目の問題が大きい。譜面台を立ててやってるロック・ボーカルは確かに興ざめかもね。欧米のSSWなんかも歌詞カード見ながら歌っている人はあまり見ないけれど、英語などは言葉自体にリズムが内包されているので、日本語よりも覚えやすいのかな、と思う。日本語だってリズムを意識した歌詞にすれば覚えやすいような。

歌詞カードのことを書いたのは、そのファイルブックを丸ごと紛失した(ようだ)からだ。ほとんどワード文書にしているから、またプリントすればいいものだが、ライブに備えて細々書き込みなどもしているので、ちょっとショック。昨日、それに気づき、探しまくったが、見つからず。最後に使った場所の心当たりはあるので、そこに置き忘れた可能性が高い。

自分の粗忽さにうんざりするのは、歌詞カードファイルを置き忘れることは今まで何度もあるからだ。他の物もよく置き忘れたりするけど。そこのところ、僕はいわゆるADDであります。こうやって日記に書けば次から注意するようになるのではないか、と思ったのだった。

そんなわけで、今日は起きてから、歌詞をせっせとプリントアウトした。というのは、明日、鶴間「菩南座」で元・はちみつぱいギタリスト、本多信介さんとのジョイントライブがあるからだ。(と、さりげなくしつこく再告知)

それで、我が「猫町ジャイブ」の"セクシーダイナマイト"フジタヨシコがわざわざ遠方より来てくれることになり、だったらちょこっとコーラスでも、と頼んでみたら、だったらちょこっとピアニカなんかも、となって明日は急遽ではありますが、フジタヨシコと山下セイジの「藤山コンビ」(「藤山寛美」をもじってみた。でも、藤山寛美を知っている人は50代未満ではあまりいないかもしれない)がちょこっと実現する予定。

風薫るフライデイナイトのひととき、足を運んでいただければ嬉しく思います。
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本多信介Live with ”露払い”山下セイジ@菩南座

■日時:5月14日(金)Open:18:00/Start:20:00(2ステージ)
■場所:菩南座 (http://homepage2.nifty.com/ishoga/
神奈川県大和市鶴間1-2-13
Tel. 046-263-7252
★小田急線鶴間駅東口下車三分★
東口出口階段を下り、大和方面に向かって線路沿いに直進2分、たばこ屋の角を左に曲がり、少し行けば左手にオーラを発する建物あり。
*地図は画像参照
■チャージ¥1500 ドリンク(ソフト同)¥500

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*アップ画像 は菩南座外観と菩南座地図

2010年5月7日金曜日

本多信介Live with ”露払い”山下セイジ@菩南座


小田急江ノ島線を相模大野駅から江ノ島方面に向かうと、東林間、中央林間、南林間と電車は林の間を縫うように走る、てなことはないが(駅名に「林間」が付くのは、かつてこの一帯を「林間都市計画」という名の下に小田急が宅地分譲を企てたことによるもの、だと。この地区に林は確かにあったらしい)、まあ架空の林を抜けたとすると、大和の手前、次の停車駅は鶴間だ。

この鶴間駅の東口出口階段を下り、大和方面に向かって2分も歩けば、左手にたばこ屋が見える。そのたばこ屋の角を左に入って、ちょこっと歩けば、左手、変哲もない住宅街の一隅に異彩なオーラを放つ建物がある。そこがSINCE 1976、”恐怖の四畳半ライブ空間”「菩南座」である。

オーナーは猫とロックと酒をこよなく愛すゴキゲンなロック爺様、戸川凛太郎氏、通称「菩南座太郎」さん。近隣に居住する僕も過去何度か、この異空間に足を運んだ。

ところで、元はちみつぱいのギタリスト、「ロックのスピリットでジャズをいてこます」本多信介さんという、これまたゴキゲンなギターおじさんがいらっしゃる。昨年秋、僕は常日頃お世話になっている必殺編集人ハマノ氏(彼は信介さんとはン十年来の悪友関係)に誘われ、国府津の信介さん宅を訪ねたのだった。

以来、親しくさせて頂いている本多信介さんだが、ぱい解散後、リーダーバンドである「ダックスフンド」を経て、『晩夏』と『Guitar Resort』という2枚のソロ・アルバムでは、リリカル、繊細、且つ洒脱でやや物憂げなギタートーンを聴かせてくれた。その楽曲の印象とは裏腹に(信介さん、失礼)、とことん気さくで気取らず飾らずのナイスなお人柄の人物だ。
本多信介HP:http://lab.vg/

ところで、これまたゴキゲンなライブスポット「パラダイス本舗」(元夕焼け楽団ギタリスト藤田洋介氏がオーナー)というお店が中央林間にあるが、今年の1月、ここでの信介さんの2度目のライブを見に行ったとき、演奏終盤、バイクに乗って颯爽と現れたのが、他ならぬ菩南座太郎さんであった。

信介さんの演奏終了後、太郎さんは信介さんに菩南座への出演依頼を交渉、その交渉現場にビール飲みつつ居合わせた僕は、信介さんに「なんなら一緒にやりましょうか」と勢いで提案、ジョイントライブの企画が立ったのだった。

前置きが長くなりましたが、そんなわけで来たる5月14日(金)に「本多信介ライブ with ”露払い”山下セイジ@菩南座」を行います。本多信介ファンのみなさん、そしてまだ”恐怖の四畳半ライブ空間”「菩南座」を体験されてない方々、是非お誘い合わせの上、ご来場くださると嬉しく思います。
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本多信介Live with ”露払い”山下セイジ@菩南座

■日時:5月14日(金)Open:18:00/Start:20:00(2ステージ)
■場所:菩南座 (http://homepage2.nifty.com/ishoga/
神奈川県大和市鶴間1-2-13
Tel. 046-263-7252
★小田急線鶴間駅東口下車三分★
東口出口階段を下り、大和方面に向かって線路沿いに直進2分、たばこ屋の角を左に曲がり、少し行けば左手にオーラを発する建物あり。
*地図は画像参照
■チャージ¥1500 ドリンク(ソフト同)¥500

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*最近、太郎さんは愛猫のBOBを亡くされた。励ましの意味でも是非ご来店、お願いします。
http://homepage2.nifty.com/ishoga/oira7.htm


*アップ画像
上:本多信介Live@パラダイス本舗(1/16/2010)
下左:菩南座外観
下右:菩南座地図

2010年5月5日水曜日

母の誕生日


昨日は母の誕生日だった。母は大正13年5月4日生まれ、86歳になった。

5,6年前まで、僕はずっと彼女の誕生日を5月5日、生まれた年も昭和元年(実際には年末のわずか7日間しかない)だと思っていた。それは僕の思いこみによる間違いではなく、母が僕に自分の誕生日データについて、「その方が覚えてもらえやすいだろうから」と嘘をついていたのだった。

我が子に対してそのような嘘をつくのはどうかと思うが、生まれた年はともかく、以来僕は50過ぎになるまで、母の誕生日は5月5日と信じて疑わなかったし、母もそれを知っていながら訂正しようとしなかった。だから僕にとっては「こどもの日」である今日が母の誕生日であるという思いがいまだに強い。

母が欝病に罹ったのは2004年の春頃。母は父と共に長いこと俳句をやっていて、この年の春先に県の俳句団体から賞を受けた。それがプレッシャーになり、鬱に至ったのではないかと父は推測するが本当のところはよくわからない。なんだかよく分からないが、心が壊れていく因子が入り込んでしまったのだろう。

欝病から料理や家事全般をすることもできなくなったのが、この年の夏頃。帰省してあまりの母の様変わり(興味、喜びの喪失、些細なことを異常に気にしたり、あらゆることに決断できずおろおろするばかりであったり、被害妄想、「着るものがない」という貧困妄想など)を、受け入れることができず、僕はけっこう堪えた。何より表情が乏しくなり笑顔を見せなくなったのが悲しかった。

そんな母を父は邪険にすることもなく、淡々と受け入れ添おうとしたが、昔の男の例に漏れず、家事は母に任せきりだったので、掃除、洗濯はまだしも、炊事はまことにおぼつかない。しばらくヘルパーさんに入ってもらって炊事を中心にやってもらったが、老老介護に不安を抱いた兄の提案で、完成したばかりの地元のケアハウスに二人で入居するようになったのが、翌年2005年の秋頃。

以来、母の心の状態は快方に向かうことはなかったが、どんどんひどくなるということもなかった。底値安定というか。東京に住む兄は、それでも仕事の合間を縫って比較的頻繁にケアハウスに住む両親を訪ねてきたが、僕は年一回のペース、行くたびに衰えていく両親を目の当たりにしてきた。

昨年、5月に父の米寿の祝いがあり、僕たち夫婦、兄夫婦、甥夫婦、など縁者集まって和やかに会を開催、カメラを向けると母も少しは笑顔を見せた。父も母もかなり衰えてきたとは言え、特に大きな病気を抱えているわけではないので、まだまだいけるかも、という期待を持った。

今年の2月頃、母がケアハウスの部屋の中で転び、腰を圧迫骨折してしまった。同じ箇所を3年前、同じような状況で骨折したことがあるのだが、今回は骨折が癒えてもベッドから起きあがろうとしないらしい。

現在はリハビリ病棟にいるが、身体的な問題は特になくても、心の問題からリハビリに対してまったく無気力で、脚の筋肉がやせ細って、さらに歩くことが困難になるという悪循環。介護士の働きかけがなければほとんど寝たきりという状態らしい。兄によると精神的にもだいぶ退行しているようだ。

いつまでもリハビリ病棟にいるわけにはいかず、今月下旬に病院でカンファレンスを行うことになっているが、退院後はそのまま特養に入所という方向になる公算が大きい。再び、父と一緒にケアハウスに住むことは難しくなった。

幸い現在空きを待っている特養はケアハウスのすぐ近くにあり、父が母を訪ねるのもそんなに困難ではない。しかし、現在父が居住しているのは夫婦用の部屋で、母が特養に入ることになれば、規約から父は単身者用の部屋に移らねばならない。経緯を一番把握している兄はこの時期、海外に所用あって、父が一人でこうした手続きを行うことは難しい。

そこで、そんなミッションを果たすために、今月18日から介護帰省することになった。このところ父とその件で何度か電話したが、父はどんどん耳が遠くなって、電話ではらちがあかず(補聴器を嫌がって装着しない)、ハガキでやりとりをしている。

毎年、母の誕生日に花とお菓子を送ってきたが、今年はそういう状況なので花は送らず、僕が描いた薔薇の絵のカードに言葉を添えてを母の病室宛てに郵送した。毎年、花を送ると母から電話があったが、今年はそれもない。どんな気持ちで僕の描いた薔薇の花を眺めたのだろうか、と思う。

2010年5月2日日曜日

黄昏の散歩ロード2010/5/1

春爛漫の具合はいかがかと、久々のヒット・ザ・散歩ロード


つつじの小道を


てくてく歩けば


八重桜はまだまだ


姥桜もまだまだ


今は葉桜のアーチを抜けて


夕日に光る水の鏡面


やがて実るための端緒H2O


夕闇に溶け込む菜の花のメロウ・イエロウ


川は流れる春暮色

本日の散歩ロードBGMはTaj Mahal "Kulanjan"