2010年5月27日木曜日

母を見舞う


先週の火曜から土曜まで実家のある下関に母の介護帰省に及んだ。母は、父と住んでいた海を臨むケアハウスから、バスを乗り継ぎ片道1時間近くかかるやはり海の近くの病院に、今年3月初めから骨折治療のため入院している。

当初、耳の遠い父との電話での会話の行き違いから、ケアハウス内での転倒による腰部骨折だと思っていたが、実際はケアハウス関連の内科病院でのショートステイ最中での転倒事故による大腿骨骨折だった。

老人性欝病を患う母は、実家にほど近いその病院でのショートステイを勧められ、心身かなりの改善が見られた矢先の事故で、状況から介護士の不注意による事故との見方もあり、病院側もそれを認めたが、父や兄と相談、特に病院側の責任を問いただすことはしなかった。

ただ、リハビリなどに積極的になったとか、笑顔が見られるようになったとか、かなりの改善が見られた経緯を報告されていたので、事故がなければと悔やむ気持ちは残る。

ケアハウスに到着した翌日、父と共に母の入院する病院を訪ねた。足腰かなり衰えた父は全行程バスはきついらしく、行きはバスとタクシーを交え、帰路は着替えの荷物もあり、タクシーという手段を取った。ケアハウスから母の入院する病院まで往復1万弱、タクシーでちょくちょく通うには出費がかさむ。僕がそばにいて運転をしてあげることができたら、父もどんなに楽かと思う。

病院は市内中心地からだいぶ離れたのどかなところに立地しているが、最寄りバス停からさらに徒歩で7、8分かかり、車を持たぬ特に老人にはやや不便なところ。僕は都合3日間、この病院に母を見舞ったが、本数もあまり多くないバスを2回乗り継ぎ、待ち合わせ含め、片道ゆうに1時間以上かかる距離に辟易した。

ほぼ1年ぶりの母との再会であったが、母はほとんど寝たきり状態になっていた。僕を見ると微かに微笑んだように思う。初夏の陽光が差す病室のベッドに、いまだ冬物のセーターにベストを着込み、小さくうずくまっている母を見たら、泣きそうになった。

骨折は癒え、高齢者女性によく見られるという甲状腺機能低下、心不全傾向などあるが、他にシリアスな疾患はないとのこと。しかし、三度の食事、排泄、洗顔、入浴、リハビリの歩行訓練に向かうとき、看護士の介助なしでは自力でベッドから起きあがることはできない。ベッドの上で上半身を起こすこともできない。

というか、しようとしない。機能的には大きな問題はないようで、頑張ればなんとか自力で車椅子までの移動は可能のはずだが、それをしない。努力をしようという意欲はまったくなく、それは心の問題からだ。

看護士から「さあ、ここにつかまって。足を上げて」などと言われるが、指示に対して上の空、「次の晩ご飯はいつ頃かね」などと聞き出す。何度も促されてようやくそろりと動き出す。それでも、歩行訓練で補助具につかまってよたよたと歩くこともできるが、さんざん声かけされ、促され、指示され、ようやくなんとか。

歩行訓練が始まる前、看護士から「今日は何日ですか? 何曜日ですか?」などと訊ねられるが、「わからん、わかりません」と。「お昼は何を食べたの?」と僕が聞けば「忘れた」と。思い出そうと努力している感じではなく、考えてみることも放棄している感じ。

二日目もなんとか歩行訓練は行ったが、来訪三日目に、看護士がベッドで横たわる母に「ちょっとリハビリやりましょうか?」と声かけしたが、母は苦悶の形相でそれを拒んだ。そのリアクションに看護士もやや鼻白み、「じゃあ、今日はやらなくていいでしょう」と。まったく意欲のない患者に対応する看護士の気持ちも理解できる。

初日、担当医によるカンファレンスに出席した。入院生活は食欲もあり、大きなトラブルもなく経過しているが、リハビリに対する意欲が見られないことから、リハビリによる大きな改善は期待できないだろうこと、依然として「依存心が強い」ということを指摘された。

しかし、面会途中、母はおむつの中に排泄したのだが、その始末を看護士に頼むためのコールボタンを握りしめたまま、ずっと押せないでいるのが母。日常生活におけるすべての行動において決断できず「どうするの、どうしようか」と堂々巡りの気持ちを抱き続けているわけで、依存心が強いというより、何もかもどうしていいのかわからないのが母。

変化を嫌い、初日、冬物のセーターを着ていたのも、自閉症者の特質に似た「こだわり」で、看護士の再三の春物への着替えを拒んできたらしい。洗濯物を持って帰ろうとすると「置いていって」と悲痛な声で言われる。入浴の度に「着るものがなくなっていく」という妄想からくるものだ。

物がなくなっていく、という不安はかなり大きく、僕に箱入りのティッシュや化粧水やら、長袖のコットンのシャツやらの購入を頼み、翌日僕はそれを叶えたが、ベッド脇の引き出しに買ってきた物をしまいこむとき、新しいティッシュ箱が3箱、未使用の化粧水ひと瓶、長袖シャツも2,3枚あるのを見つけ、「あるやないの」と言えば「すぐになくなるから」と母は言った。

口の周りや足先に痺れがあると訴えるので、「痺れだけかね? 痛いところはある?」と聞けば、「身体中が痛い」と眉間に皺を寄せ、ぼそぼそと言った。鬱からか甲状腺機能低下からか、いよいよ表情が乏しくなっていたが、悲痛の表情はしばしする。それがなにより忍びなかった。

最終日別れるとき、思いついてベッドの母のすぐそばに半身を横たえ、デジカメを前方に掲げ、二人の写真を撮ったが、母はそれをひどく嫌がったことが、またチクリと心に堪えた。帰路、病院裏手に回り、防風林で遮断された海岸まで足を伸ばし、その日は良く晴れた夏日、夕方の陽光に照らされた海を見ていると涙が込み上げて仕方がなかった。

今月末にも母はこの病院の介護病棟に移棟し、最終的にはケアハウスのすぐそばの特養ホームに入所することになっている。特養へ入所は空き待ち状態だが、第1優先なので、そんなに待たずとも良いだろう。新しく綺麗な特養ホームは、今回見学したが、のべつ大きな声で唸っているご老人もおられ、いよいよ「終末期の居所」の印象を持った。

父とのケアハウスでの同居生活も続けることができなくなったことから、母の特養ホームへの入所と同時に、父も夫婦用の広い部屋から、単身者用の部屋に移らねばならない。そうした手続きや諸々の作業を父一人ではできないことから、兄か僕かがまた近いうちに帰省することになるだろう。

そうなればまたひとつ、母と父の人生に句読点が打たれる。僕にとっても今回の帰省は流れてゆく生活を区切るカンマになった。「やれやれ」から「さてさて」へのカンマ。

今回の帰省で父の母に対する鷹揚さ、寛容さ、優しさを多く感じた。母が誰よりも頼りにするのが父。まだ頭はそこそこしっかりしているが、その父も89歳、かなり衰えた。耳が遠く、補聴器はあるのだが付けるのを面倒がり、会話はスムーズにいかないが、父とたくさん話をすることができたのが今回の収穫、良きことだった。


*画像は母が入院している病院裏手、すぐそばを臨む海。響灘と称されるところ。護岸壁があり、浜辺には容易に下りられない。陽光の下、人っ子一人いない砂浜が広がる。

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