2010年5月5日水曜日

母の誕生日


昨日は母の誕生日だった。母は大正13年5月4日生まれ、86歳になった。

5,6年前まで、僕はずっと彼女の誕生日を5月5日、生まれた年も昭和元年(実際には年末のわずか7日間しかない)だと思っていた。それは僕の思いこみによる間違いではなく、母が僕に自分の誕生日データについて、「その方が覚えてもらえやすいだろうから」と嘘をついていたのだった。

我が子に対してそのような嘘をつくのはどうかと思うが、生まれた年はともかく、以来僕は50過ぎになるまで、母の誕生日は5月5日と信じて疑わなかったし、母もそれを知っていながら訂正しようとしなかった。だから僕にとっては「こどもの日」である今日が母の誕生日であるという思いがいまだに強い。

母が欝病に罹ったのは2004年の春頃。母は父と共に長いこと俳句をやっていて、この年の春先に県の俳句団体から賞を受けた。それがプレッシャーになり、鬱に至ったのではないかと父は推測するが本当のところはよくわからない。なんだかよく分からないが、心が壊れていく因子が入り込んでしまったのだろう。

欝病から料理や家事全般をすることもできなくなったのが、この年の夏頃。帰省してあまりの母の様変わり(興味、喜びの喪失、些細なことを異常に気にしたり、あらゆることに決断できずおろおろするばかりであったり、被害妄想、「着るものがない」という貧困妄想など)を、受け入れることができず、僕はけっこう堪えた。何より表情が乏しくなり笑顔を見せなくなったのが悲しかった。

そんな母を父は邪険にすることもなく、淡々と受け入れ添おうとしたが、昔の男の例に漏れず、家事は母に任せきりだったので、掃除、洗濯はまだしも、炊事はまことにおぼつかない。しばらくヘルパーさんに入ってもらって炊事を中心にやってもらったが、老老介護に不安を抱いた兄の提案で、完成したばかりの地元のケアハウスに二人で入居するようになったのが、翌年2005年の秋頃。

以来、母の心の状態は快方に向かうことはなかったが、どんどんひどくなるということもなかった。底値安定というか。東京に住む兄は、それでも仕事の合間を縫って比較的頻繁にケアハウスに住む両親を訪ねてきたが、僕は年一回のペース、行くたびに衰えていく両親を目の当たりにしてきた。

昨年、5月に父の米寿の祝いがあり、僕たち夫婦、兄夫婦、甥夫婦、など縁者集まって和やかに会を開催、カメラを向けると母も少しは笑顔を見せた。父も母もかなり衰えてきたとは言え、特に大きな病気を抱えているわけではないので、まだまだいけるかも、という期待を持った。

今年の2月頃、母がケアハウスの部屋の中で転び、腰を圧迫骨折してしまった。同じ箇所を3年前、同じような状況で骨折したことがあるのだが、今回は骨折が癒えてもベッドから起きあがろうとしないらしい。

現在はリハビリ病棟にいるが、身体的な問題は特になくても、心の問題からリハビリに対してまったく無気力で、脚の筋肉がやせ細って、さらに歩くことが困難になるという悪循環。介護士の働きかけがなければほとんど寝たきりという状態らしい。兄によると精神的にもだいぶ退行しているようだ。

いつまでもリハビリ病棟にいるわけにはいかず、今月下旬に病院でカンファレンスを行うことになっているが、退院後はそのまま特養に入所という方向になる公算が大きい。再び、父と一緒にケアハウスに住むことは難しくなった。

幸い現在空きを待っている特養はケアハウスのすぐ近くにあり、父が母を訪ねるのもそんなに困難ではない。しかし、現在父が居住しているのは夫婦用の部屋で、母が特養に入ることになれば、規約から父は単身者用の部屋に移らねばならない。経緯を一番把握している兄はこの時期、海外に所用あって、父が一人でこうした手続きを行うことは難しい。

そこで、そんなミッションを果たすために、今月18日から介護帰省することになった。このところ父とその件で何度か電話したが、父はどんどん耳が遠くなって、電話ではらちがあかず(補聴器を嫌がって装着しない)、ハガキでやりとりをしている。

毎年、母の誕生日に花とお菓子を送ってきたが、今年はそういう状況なので花は送らず、僕が描いた薔薇の絵のカードに言葉を添えてを母の病室宛てに郵送した。毎年、花を送ると母から電話があったが、今年はそれもない。どんな気持ちで僕の描いた薔薇の花を眺めたのだろうか、と思う。

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