2009年7月2日木曜日

I君からの手紙



先月の『発達障害 境界に立つ若者たち』の出版記念ライブには、本書に登場するA学院の卒業生たちが何人か来てくれた。

そのひとり、I君から手紙が届いた。I君は本書ではLD傾向を持つ「タケシ君」として僕のインタビューに応じてくれた「今どきのイケメン」の若者だ。

「出版記念ライブに参加させていただきありがとうございました」と始まり、「乱筆乱文失礼します」と括られた手紙は、便せんにペンで書かれ、多少不揃いな文字ながら漢字もしっかり使って、誤字も文章の破綻も特にない立派なものだった。

一生懸命ていねいに書こうとしたことがびんびんと伝わり、ところどころ修正液の跡がむしろ微笑ましく感じた。彼が文章を書くことが不得手であることを知っているから、よけいに嬉しく思ったのだ。

おそらく、書けない漢字は携帯の文字変換機能を使って調べ、文章の表現にも気を遣い、随分と時間をかけて書いてくれたのだろう(彼は国語の授業でよくそうしていた)。小振りの便せん4枚分、彼がこの手紙を書くにあたって、かけた時間を想像すると胸がじんときた。

「どこから見ても普通な」I君を文中で「LD児」であると規定し、発達障害を抱えている若者のひとりとして本書で紹介することには、いささかの躊躇があった(他のインタビューに応じてくれた卒業生たちも同様であったが)。境界域にある彼らは自分が「障害者」と呼ばれることに大きな抵抗感を持つ。彼らにとっては胸に突き刺さる言葉であろう。

文中でも書かれてあるが、I君は、自分が「LD」だと言われたことに落胆し、「やべえなあ」と答えた。彼はそれまで「LD」という言葉さえ知らなかった。勉強が大嫌いなことは十分に承知しながら、そこそこ勉強しても「なんで覚えられないんだろう」という自覚があった。

もとより、僕は、知的なりメンタルなり、「健常者」の中でややはみ出してしまう資質を「障害」という語彙でくくることに抵抗があった。当事者やその関係者に深く関われば関わるほど「障害」という言葉が無粋に響く。当事者サイドで話をするときは、この言葉は省いても十分に伝わるのであまり使用することはない。

それが偽善めいたことだと批判されようと、本書を刊行するにあたり、「発達障害」という言葉をタイトルに持ってくることには、僕自身、抵抗があったのは正直なところだ。「障碍」、「障がい」、等と表記を変えたりすることもあるが、どんなに言い換えようと、社会において彼らが十分に認知されていなければ、偏見と無理解の垣根は取り払うことができないだろう。

しかし、ある知的の子を持つ母親に「私たちは子どものための情報をいつも欲しいと思っている。もしあなたの本に障害という文字がなければ、本屋に行ってもあなたの本を見つけることができないかも知れない」と言われ、「発達障害」という言葉をタイトルに持ってくることに納得した。この本がより多くの読者の目に触れることになれば、彼らにとっても良いことであろう、と思うに至ったのだ。

I君の手紙には、「本を読ませていただきました。いろいろな事が書いてありびっくりしました。でも自分はインタビューを受けて良かったと思っています。ありがとうございました」と書かれてあった。「先生はウクレレが似合うな〜って、密かに思いました」とも。

こうした手紙を受け取ることの幸せを、神様に感謝しなければと思ったのでした。

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動画は「出版記念ライブ」での『デイドリーム・ビリーバー』
ウクレレ、似合いますか? 笑

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