2008年4月30日水曜日

金は天下のまわりものだ。


いつもこちらをよけてまわるのが気にくわないが。

19世紀ロシアの小説家、ツルゲーネフの言葉。なぜ、こちらをよけるのかと言えば、金というものはあるところからあるところへ巡回するのであり、ないところへ訪ねてくることはまれであるからだろう。貧乏人は上空で巡回している金の流れをただただ仰ぎ見るだけなのだった。


あまりに陽気がいいので、ヒット・ザ・散歩ロード。以前から練習を積んできた「なんば歩き」が大分自然にできるようになってきた。「なんば歩き」というのは、かつての日本人の伝統的な歩き方で、踵から地面を踏みしめ爪先で蹴り出し、大股で腰をねじりながら歩く西洋人に対し、足の裏全体で地面を踏みしめ、やや小股で平行移動しながら歩く日本人独特の歩き方だ。靴文化の「かつかつ系ウォーキング」に対して、わらじ文化の「すたすた系ウォーキング」という感じであろうか。人間独特の二足歩行の完成型という説もある(というのは出まかせですが)。

なんば歩きを「同手同足で歩くこと」ととらえると、不自然で無理な動きになってしまい、長く続けることができない。それにすごくカッコ悪い。あの人、ちょっと変かも、と思われるかもしれない。

ちょっと、まあ、コツがいる。手をどう振るか、ということは考えない。腰を平行移動させる、身体の軸をまっすぐに保つ、というようなことを意識して歩くと自然に同手同足になる。すたすたすたすた、と頭の中で唱えながら歩くこと。

なぜ、なんば歩きを始めたかというと、これは腰にいいというのが直感的にわかるからだ。しかし、散歩ロードでウォーキングに励む人のほとんどが腕と脚を交互に振り出す西洋型ウォーキングだ。まだ「なんば歩き」は異端であるように思う。僕もまだ市街地を「なんば」で歩くのは幾分恥ずかしい気がする。


画像の猫像は「なんば歩き」が理に適った歩き方であることを証明している。

2008年4月29日火曜日

貧困と希望は母と娘である。


娘と付き合っていると母のほうを忘れる。

18〜19世紀ドイツの作家、ジャン・パウルの言葉。貧しき者よ、希望せよ。ということなのだろうが、母との付き合いが長いと娘がいることを忘れがちになる。そうだ、腐れ縁の母とは手を切り、娘の方に目を向けようと思うが、娘は移り気なので会ってくれたり、くれなかったり。


先週以来、取りかかっていた「零細イラストレーターに愛の手を」DMプロジェクト(まあ、「売り込み」ってやつですけど)が一段落し、さて、次の一手をと考えつつ、ネットを徘徊していて、ディランがDJをやっている「テーマ・タイム・ラジオ・アワー」のDLサイトに遭遇、今の僕にはど真ん中ストライクの選曲の数々で、しかもディランのDJ! ありがたや、サンクス・ゴッド、ばりばりとDLしまくり、聴いている。
http://dsp.vscht.cz/pavelka/TTRH/ttrh01.html

一発目、「テーマ」は「Weather」。雨音とかすかな雷鳴のSEがあり、ハスキー、セクスィーな女性の声で、It's nighttime in the big city, rain is falling. A night-shift nurse smokes the last cigarette in a pack. It's "Theme Time Radio Hour" with your host Bob Dylan. なんていう雰囲気たっぷりのイントロがあって、御大ディランがこれまた、雰囲気たっぷりに喋り出すんですね。で、御大の口から紹介されるのはマディ・ウォーターのBlow, Wind, Blow、ここら辺の流れ、ちょっと鳥肌たちました。

ディランの選曲はブルーズ、カントリー、ゴスペル、オールドタイミーなアメリカン・ポップス、クラシックロック、比較的最近のパンキッシュなロックまで多岐にわたっていて、彼の音楽の背景(偉大なるアメリカン・ポップス!)が透けて見える。そして、ポップスというものはDJの手によってラジオから流れてくるのが本筋だということが分かる。

嬉しいな。当分、聴くべき音楽に困らない。

2008年4月28日月曜日

金がすべてじゃない。


でも、今一番欲しいものは、やっぱり金なんだ。

「億万長者入門」という本をベストセラーにしたアメリカの財テクのプロで作家のロバート・アレンの言葉。「億万長者入門」という本を読んだこともなければ、読もうとも思わないが。いや、それは、僕はお金に興味がないというのではなくて、そりゃ、金は欲しいさ、「今一番欲しいもの」かもしれない。でも、金持ちになるための才覚と行動力というものが自分に欠けていることはよく分かっている。もし、僕に長所、良き点、というものが備わっているとしたら、それと引き替えに神様が僕から奪ったものだと考える。金儲けの才能。

午後、自転車に乗って買い物。僕の買い物というのは近所のヤマダ電機、ダイクマとダイソーの3店で大体ことが足りる。ヤマダ電機でプリンタインク、インクジェット・ペーパー、CD−R等、同じ建物3FのダイクマでUCCのボトルコーヒー、日清焼きそば(袋のヤツ)、チキンラーメン(袋のヤツ)、ポテチ、スナック菓子、袋入りのチョコレート等、隣の建物にあるダイソーでA4のファイルブック、工作授業ペーパークラフトに使うA4画用紙、ボンド等購入。帰路、煙草の自販機からマルボロ・ライト・メンソールを3箱。食品、消耗品ばかりなのは貧しき者故。

帰宅後、ごろ寝読書、今ハマっているのは斎藤美奈子、辛酸なめ子。最近は女の物書きの方が面白い。

ところで、告知するのが遅れたが、「不忍ブックストリートの一箱古本市」というのがある。5月3日は「たけうま書房」店主の友人夫婦が店を出す。谷中・根津・千駄木方面の方、5月3日、ぶらりと出かけてみてはいかがでしょう。

2008年4月26日土曜日

「貧困は恥ではない」


というのは、すべての人間が口にしながら、誰一人、心では納得していない諺である。

19世紀ドイツの劇作家、コッツェブーの言葉だそうだ。コッツェブーが誰だか知らんが。


金曜日は授業の日。1時限目は「宇宙の話パート2」。「光年」という宇宙的距離の単位について教える。ウチの生徒は1キロメートルという単位ですらあまり把握できていないのだが、とにかく教える。光というものにも速度があり、で、これ以上速いものは一応ない、とされている(生徒の目が泳ぎ出す)。「のぞみ」は「ひかり」より速いけどな(笑い取れず)。光の速さは1秒間におよそ30万キロメートル、つまり1秒間に地球を7回半回る速さである(欠伸をする生徒あり)。その光が1年かかって到達する距離が1光年。気が遠くなるほど遠い(だからどうなの?)。この前話したように、銀河系宇宙のはじっこに僕らの地球があるわけど、地球からその銀河系宇宙の中心までの距離は2.8万光年。気絶するほど遠い(生徒の目が虚ろになる)。調子が良ければこのテーマで2時限行くが、説明していて空しさを感じ、1時限で終了。

2時限目は日本史「満州事変」。「自虐史観」に充ち満ちた子ども用歴史漫画が教材。この編に登場する日本軍「陸軍大将」は鬼のようなキャラクターで描かれている。本当のところがどうであったにせよ、僕は侵略の構図がわかりやすいこの教材を選んだ。いかに取り繕うともあの戦争は侵略以外の何物でもない。「愛国」より「自虐」の方がまだ良いと思うのだ。

午後は「子どもニュース」から保険の話。関連して「少子高齢化」を説明、なかなか大変な問題なんだよ、と。役所の不手際、馬鹿さ加減を生徒の前でひとくさり。最後の時間は英語。ドラえもん英語から、今回は顔、身体の部位の名称、あご=chinというのが受けた。

2008年4月24日木曜日

「財布が軽ければ、心は重い」


と言ったのはゲーテだそうだ。本当かどうか知らんが。

調べ物あり、図書館に行く。平日の昼間、図書館で本を読みふけっている人は圧倒的に中年以降の男性が多い。覇気というか、やる気に満ちた感じの人は少ない。自分を差し置いて言うのも失礼だが、一様にうらぶれた感がある。この図書館沿い、200メートルくらい先に職安があり、職安帰りの暇つぶしコースになっているのかも知れない。僕も5年ほど前、学校の専任職を離れたとき、失業保険の給付を受けた帰り、いつも図書館に寄っていた。あの頃は、「人生の夏休み」と称し、非常に幸福な一時期だった。

昼下がり、借りてきた本をベッドに寝そべりながら読んでいたら、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めると日は落ち、春浅き夜、いろいろなことをちゃんとやるのはめんどくさいなあ、しみじみと思った。


画像は「いろいろなことをちゃんとやるのはめんどくさいなあ」と思っている猫。

2008年4月23日水曜日

「主張と収入の和は一定である」


というのは、「金魂巻」の故・渡辺和博の言葉。文句を言わず地味に働け、ということだ。文句を言うなら貧乏は道連れ、とも。すみません、その通りだ。人生はほどほどに甘くなく、生活はそこそこに厳しい。

午前中、ここ数日作成してきた営業関係ファイルをまとめ、午後歯医者からの帰路コンビニに立ちよりメール便で発送。そのあとはプール。水中歩行30分、ジャクジー30分、水泳30分、仕上げのジャクジー30分。たっぷり全身ふやける。平日夕刻のプールは水の音もアンニュイに聞こえ、水泳もあまり集中できず、頭をプールの端に乗せ、諸々行く末考えながら、仰向けでゆっくりバタ足。プール通いもいい加減飽きてきた。


画像はウェブからの拾いもの、「今日はこれくらいにしておこう、仕事もあるし…」と水から上がるところだ。

2008年4月19日土曜日

内蔵クン2号


寝杉田二郎。

昨夜は夕食後、テレビを見ながらうたた寝、服着たまま、歯も磨かず、そのままベッドに潜り込んだのは12時ちょい過ぎ、爆睡、目覚めたのは午前10時を回っていた。まだ、頭の中は春霞。

金曜の授業、午前中は「人体」第1回目。10年くらい前、授業グッズとして作成した図版「内臓クン」(学習図鑑からモノクロコピー、色鉛筆で彩色 したもの)が古びて消耗していたので、今回大判の図版が掲載されていた学習図鑑から拡大スキャン、A34枚を連ねた全長150センチはあろうかという、原 色フルカラー特大「内臓クン2号」を制作、生徒に披露した。

参考テキストに「人体はわかりやすく言えば、一本の管(くだ)です」とあって、そう言われれば、確かにわかりやすい。シニカルなアメリカ人の友人が「人間なんてとどのつまり、『歩く糞袋(walking shit bag)』だよ」、なんてことを言っていたのを思い出す。

難しく言えば、人体は60兆とも言われる細胞からできている内宇宙、その60〜70%が塩分濃度2%程度の水分と言われれば、地球の組成に似てい る。先週、途方もなく大きい宇宙をやり、今週は宇宙規模からすれば途方もなく小さい1個の人体について学習したわけで、なかなか哲学的な授業メニューと言 えるのではないだろうか。これを交互にしばらくやっていこうと思う。

午後は十数年も教材に使っているNHK「子どもニュース」を見せる。先週回から3年ぶり、新しいお母さん(はしのえみ)と子ども達が登場した。若返ったお母さんと子ども達、お父さん(鎌田靖)も心なしか嬉しそうだ。

3年くらいを周期にお母さんが若返り、子ども達は子どものまま(生意気になる前)にとどまる、というのはお父さんの秘めた理想であろう。こういうことを書くと全国のお母さんを敵に回すことになるが、お許しを。夢は夢。


画像は「内臓クン2号(部分)」。膀胱をキン○○と勘違いする生徒に「これは膀胱、おしっこが溜まるところだよ。ああ、これは尿道、チ○チ○じゃないぞ」と言ったら、生徒の一人から「下ネタはやめて」と言われた。

2008年4月17日木曜日

挿絵仕事


角川「本の旅人」連載、西村京太郎『殺人者は西に向かう』第2回目の挿絵。前日、ほぼまとまっていたラフから、仕上げへ。所要時間は3時間くらいだろうか。

今回、事件が起きたのは岡山県の湯郷(ゆのごう)という温泉地の旅館。急遽、新横浜から新幹線「のぞみ」に乗車、現場に向かう十津川警部。現場に到着すると県警のパトカーが旅館の前に停まっている。被害者は前夜まで犯人と目される男と酒を飲んでいた。その酒の入ったコップに青酸カリ反応が…。西村先生定番の列車や観光地を舞台とするトラベルミステリーですね。

そういうわけで、イラストはのぞみ(N700系)と湯郷温泉の看板、県警パトカーのイメージに犯人のイメージを重ねてみた。「湯煙殺人事件」となると、エッチなサービスショットがあるのが通常だが、西村先生はそういうのはあまりりお書きにならないようだ。残念だ。

描き上げた直後は客観的に見ることができないから、しばらく放置し、手を加えたりすることが多いが、今回はそういう余裕がなかった。僕のせいではありませんけどね。すぐさま、メールに添付し画像ファイルを送付。以前だったら、締め切り当日に届けようと思えば持ち込むかバイク便しかなかった。画稿料よりバイク便送料の方が高く付く。

こういうことも便利にはなった。これだけ、いろいろなことが便利になったというのに、ギャラは上がらず、労働時間は短縮されない。誰が搾取しているか、みんなで考えてみましょう。

2008年4月16日水曜日

♪泡にまみれてよ〜


案の定、西村先生の原稿は遅れ、テキストデータが届いたのは昨夜遅く。イラストの締め切りは水曜夜。午前中、プリントアウトして、目を通す。

案の定、次の事件は西日本、岡山で起き、十津川警部は新横浜からのぞみに乗車、西に向かう。案の定、JR東海→JR西日本のコースであった。現場は岡山の温泉地、湯郷温泉というところ。

ウェブで資料を探す。ちょっと前まではイラスト制作時間の大半は資料探しだった。「のぞみ」の資料写真なんて五万と拾える。便利にはなった。

歯医者の予約が3時15分、それまでにざっとアイデアがまとまったので、治療のあと、プールへ。空いていて快適だった。ジャクジー独り占めで小1 時間も浸かっていただろうか。秘密兵器スイミング・キャップiPodで音楽を聴きながらなのでいくらでも浸かっていられる。日によって、泡の出具合がしょ ぼいときもあるが、今日は全開、ぼこぼこ具合が非常に良く、気持いかった。

僕は普段はシャワーばかりで湯船に浸かることはめったにないので、ここぞとばかりの湯浴み。腰あたりにジェットバブルを効かせて、腹回りもぼこぼ こ、全身ぼこぼこにまみれて、リラックスの極地に至る。ビールかワインでも持ち込んで、飲みながら浸かってられたらさらにいいだろうなあ。今度は缶ビール をキャップに仕込んで飲める装置を開発したいものだ。


画像はネットからの拾いもの。こやつも「まみれる」感じが大好きなのだろう。

2008年4月15日火曜日

豊田勇造ライブ@南林間「イーサン食堂」


Rainy Days and Mondays always get me down.(雨の日と月曜日はいつだって気持が塞ぐ)という歌があったが、自由業の身であっても月曜日は何となく嫌だ。休日開け全国の勤勉実直なビジネス マン諸氏が、朝からかいがいしく働きはじめることを思うと、ベッドで惰眠を貪っててはいけないと思い早起きし、イラスト営業関係の仕事をいくつか片づけ た。

まあ、早くに目が覚めたのは、日曜日の夜、よせばいいのに、いつぞや興味半分で飲んで悪酔いしたタイのナショナル・リカー「メコン・ウィスキー」 をまたぞろ飲んで、しこたま酔い、帰宅後ぶっつぶれるように寝たからだ。あれは効きます。一口含んで、そのいつぞやの記憶が蘇り、オーダーしたことを ちょっと後悔したが、飲み干し、口直しのつもりでスリランカ・ハイボールだったか、ラオス・ハイボールだったか東アジアの国名を冠した飲み物を再オーダー したのだが、そのあとの記憶が端々途切れる。恐るべしはアジアの酒。
いつぞやの記憶

久しぶりの「メコン体験」をしたのは、「いつぞや」と同じ場所、地元近くの南林間「イーサン食堂」、このタイ・レストランを「いつぞや」ご紹介い ただいた音楽ライター&編集者、浜野サトルさんも行かれるというので、日本の「プアチィウィット」(タイの音楽カテゴリーで「生きるための音楽」とのこと)シンガー、豊田 勇造のコンサートに出かけたのだった。

ライブ会場はそのイーサン食堂の2階、観客は板張りの床に座してライブを聞くという、腰痛持ちの僕には避けたい環境だが、座椅子をゲット、はなはだ楽ちんな「座椅子ライブ鑑賞」となった。

勇造さんのコンサートはこれで3回目、最初は3年前、次は2年くらい前だったか。これまで勇造さんを聞いた中では「熱い」という印象が突出してい たが、今回は「温かい」という印象がライブ全体を通して感じた。熱帯から温帯への微妙な変化は経年というものがあると思うが、年を取り、いささかのエネル ギーの劣化があることは誰しも受け入れなければならないことで、無理せずあらがわず、相応の表現に移行することは自然なことなのであろう。

ライブ終演後、お話する機会があり、「勇造さんの髪はなぜにそう黒々として豊かなのか、染めているのか、地毛なのか」と失礼にも問いただした。 「さあ、何ででしょう」と彼は静かに笑って答えたが、来年は60才還暦バースデーコンサートとして、6時間60曲歌う、というのを企画しているそうだ。そ ういうことをやろうと思う気持ちを見習いたいと思ったね。

2008年4月13日日曜日

授業初日


僕が長年関わってきた学校も年々生徒数が減少し、今年度は新入生を得ることが出来ず、全生徒数わずか6名の名実ともに小さな「家族的」な学校となった。経 営者院長がお爺さんであれば、僕はお父さんの世代、あと、お姉さん、お兄さんの講師職員がいる。教室ではなく、家庭の居間でコタツに入りながら授業をやり たいくらいだ。

専任を辞めた2003年以来、週に2回授業を持ってきたが、今年度は1回、しかし、授業の他に教務的な仕事もしなければならなくなった。ここで、 内情を詳しく述べるわけにはいかないが、なかなかにハードな状況ではあります。が、ショー・マスト・ゴー・オン、学校というもの、簡単に店じまいするわけ にもいかないのであります。

とりあえず、新学期を無事迎えることができ、金曜日に新学期最初の授業を行った。今年度は社会科系2教科(現代社会、日本史)、理科系2教科(生 物、地学)、英語、美術等を担当する。一応、定められた教育課程に基づいて教科を教えていくわけだが、LD児等、軽度発達障害を持つ生徒については、彼ら にふさわしい内容の授業を行う裁量権は基本的に現場にあり、文科省もこれを認める現状となっている。

有り体に言って、小学生で履修すべき漢字も読めない書けない、四則計算も満足にできない高校生を相手に授業をするわけで、まず指定された高校教科 書は使えない。かといって、小学生用の教科書、ドリルを使用したのでは生徒達の自尊心をはなはだ傷つけることになる。それで、ずっとオリジナルのプリント 教材を作ってきた。

元々、そういうことが好きだったこともあるのか、長年せっせとプリント類を作ってきて、各教科ごっそりと持っている。毎年同じものを使えば楽だろ うけど、小さな学校故、全学年同じクラスで同じ授業を行うため、一度使用した教材は3年間は使えない。教科内容の学習達成度は低くても、「先生、これ前 やったことあるよ」と手抜きをやろうものならすぐ指摘されたりする。

3年前に作ったものを再度使うこともあるが、生徒の顔ぶれ、資質、能力も違うため、と言うより、僕自身が飽きやすく、新しいことをやりたい性分なので、あらたに作り直すことの方が多い。それで、結局、毎年、この時期は教科のプリント作成をしこしことやっている。

連休過ぎくらいには概ね年間を通して、それぞれの教科で何を主眼にして学習させていくかの方向性が決まる感じだ。今年度、日本史では漫画を使った 昭和史、現代社会はNHK「子どもニュース」の録画ビデオを見せての授業(これは10年以上続けている)、地学は宇宙、生物は人体を中心にやろうと。英語 はドラえもんの子ども向け英語本を下敷きにプリントを作った。

教科書を中心に授業を行う普通の教師に比べ、面倒な点はあると思うが、自分の作った教材で授業を行う方がはるかに楽しいと思う。金曜日の突端授業 は、地学「宇宙はいつどうやってできたの?」。理科系科目は「なぜなぜ問答」形式で、「ケペル先生、こんにちは」みたいな。(古いですねえ)

150億年前から200億年前という途方もない昔、ビッグバンと呼ばれる、それはそれは途方もない大爆発があり、どれだけ途方もないかと言葉では 言えないくらいものすごい爆発があって、宇宙はとにかく生まれ、えっと、その前に何があったかって俺に聞くなよ、そんなことは神様しかしらないんだから、 で、その宇宙の片隅の銀河系と呼ばれる星の集まりの中には約2000億個という途方もない数の星があり、そのまた片隅のちっぽけな、ちっぽけな星の集まり が太陽系と呼ばれ、その中のちっぽけなちっぽけなちっぽけな星が地球なんだ。その地球に生きている人間なんてどれだけちっぽけか、だからな、あまり悩む な、悩みそうになったら宇宙の途方もない大きさのことを考えなさいね、と生徒相手にケペルならぬ「毛減る」先生は熱弁をふるったのでした。


画像はウェブから拝借。猫先生が黒板に書いたString Theoryというのは「弦理論」ですね。近代物理学の量子やら素粒子やら何やらのまったくわかりませんが、で、手に持っているのが猫の大好き毛糸玉で、ちょっと笑えました。

2008年4月10日木曜日

西村京太郎『殺人者は西に向かう』


友人イラストレーター木内達朗さんのオシャレでポップでちょっとノスタルジックな表紙絵でおなじみの角川のPR誌「本の旅人」で連載小説イラストが始まった。
http://www.kadokawa.co.jp/mag/tabibito/

「本の旅人」は以前、2年以上にわたり白川道さんの『されど純情』という連載小説のイラストを描いたが、今回、イラストを描かせて頂くのは西村京太郎先生の『殺人者は西に向かう』という小説。

西村京太郎先生の小説は3年くらい前、やはり角川の「野生時代」で連載された『記憶』という小説でイラストを描かせて頂いた。おなじみの十津川警 部、おなじみの列車がらみトリックが出てくるもの。このときはSLやら近鉄特急やら描き、ちょっとした「鉄ちゃんイラストレーター」になりかけた。

今回もおなじみの十津川警部が出てくるおなじみの推理物で、今回第1回目の「現場」は東京。「西に向かう」ということなので、おなじみの列車路線 がらみのトリックが出てくると思われ、JR東日本→JR東海→JR西日本、場合によっては→JR四国→JR九州という展開になるであろう。JR北海道は出 てこない、たぶん。

小説挿絵というのは、普通小説を読んで絵を描くわけだが、文中、ビジュアルなイメージが立ち上がる描写がある場合と、なかなかビジュアルなイメージが掴めないときとあり、後者の場合はけっこう苦労する。

今回は初手からビジュアルなイメージが湧かず、困った。初回から事件は起こり、被害者は「遺品整理会社」の社員、都会の片隅で孤老死した老人の遺品を整理するところで何者かに殺害された、という展開。

この孤老死した老人というのが、とりあえず物語のキーになりそうだったので、「孤老死」を描こうと。孤老死孤老死と頭の中でイメージを追いつめていく内、画像のようななんとも陰鬱な老人のポートレイトになったのでした。

今週頭にも2回目の原稿が来ていいはずなのだけど、まだ来ないということは西村先生の原稿は「順調に」遅れていると思われる。以前にも「申し訳ないがイラストの締め切りは明後日で」ということが何回かあったような、西村先生。

2008年4月9日水曜日

『大リーグ・フィリーズ 10,000敗』



表紙イラストを描かせて頂いた『大リーグ・フィリーズ 10,000敗』という本が出版された。著者はスポーツ・ノンフィクション作家の佐山和夫氏。版元は志學社という産声を上げたばかりの出版社、この本が出版第1冊目となる。
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=32047799

本のサブタイトルに「"友愛の町”球団が負けても負けても愛されるわけ」とあるが、「友愛の町」とは合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィアのこ と。PHILADELPHIAの語源が、PHIL=愛、ADELPHIA=兄弟、ということで、「友(兄弟)愛の町」として知られる。

愛は同性間でも大いに育まれ、「ゲイの町」としても有名で、そう言えばトム・ハンクスがエイズに冒されるゲイの軍人役を演じた「フィラデルフィ ア」という映画があった。スプリングスティーンの「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」はこの映画の挿入歌でしたね。ニール・ヤングの「フィラデルフィ ア」という美しい曲もありますね。マーク・ノップラーの「セイリング・トゥ・フィラデルフィア」という曲も。

どの曲も優しげだけどもの哀しい曲調、アメリカ人が持つフィラデルフィアに対する共通イメージなのであろうか。フィラデルフィアはアメリカ合衆国 独立の地、最初の首都であったわけで、日本で言えば京都のような位置にあるのかもしれない。僕などはフィラデルフィアと言えば「フィラデルフィア・クリー ムチーズ」を真っ先に思い起こしますが。

この本は、そのフィラデルフィアで弱小球団でありながら、長きにわたって市民に愛され続けてきた大リーグ球団・フィリーズが昨年7月、球団創設以 来10,000敗を記した試合に焦点を当てながら、「弱いのに愛される」フィリーズという球団の魅力を紹介している。以下、ウィキ(http://ja.wikipedia.org/wiki/フィラデルフィア・フィリーズ)から抜粋。
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1883年から存在するメジャーリーグ屈指の古豪であるがワールドシリーズの優勝は1980年の1回だけである。球団創設以来、1970年代後半 の黄金時代までは、ほとんどの時期を下位ですごす万年弱小球団だった。シーズン100敗は14回を数え、16シーズン連続負け越しのメジャー記録を持つ。 2007年7月15日、アメリカ・プロスポーツチームでは初となる通算10,000敗を記録した。しかし近年は上位で安定しており、2004年にシチズン ズ・バンク・パークが開場してからは、観客動員数でもメジャーの上位に名を連ねており、人気球団のひとつとなっている。
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志學社創設者であり、古くからお世話になっている編集者T氏から、「1万敗にちなんで、無数(1万個)のボールがグラウンド上に転がっている感 じ」で描いて欲しいと依頼されて、イラストを描いたわけだが、ボールの配置にいささか苦労した。つまり、自然に転がっている感じを出すのは意外に難しく、 かなり意図してボールを描き置いていったわけだが、なんとなく「セザンヌの林檎」みたいな。いや、僕などはセザンヌの端くれにも当たらないが。

グラウンドはフィリーズのホーム、「シチズンズ・バンク・パーク」を模して描いた。左上に見えるスコアボードは、実際には電光掲示になっており、こういう風には見えないが、9回裏の得点が0になっていることでフィリーズの負け試合であることがわかる遊びを描き加えた。

ちなみに114年かけて10,000敗したこの記録、負け試合数ではあらゆるプロスポーツチームで最高なのだそうだ。記録達成の翌日のニューヨー ク・タイムズの記事に「フィリーズ、1万敗、ファン、歓声でその記録達成を迎える」と見出しが踊っていたそうだ。そして、地元ファンは「威厳を持って負け 続けた」フィリーズという球団を心から愛していると。

日本では「勝ち組、負け組」などと言って、格差社会の風潮はびこる誠に嫌な時代。「勝った負けたと騒ぐじゃないよ」という歌があったが、結局、人 生はイーブンに終結すると、僕は思っているのですね。10,000勝10,000敗の人生。今負けててもそのうち取り返せるって。まあ、これは僕自身に 言ってることなのだけど。

2008年4月8日火曜日

大岡川の桜


散った桜の花びらが川面を漂っている様子を「花いかだ」と言うそうな。日本という国の有様現状を嘆くことの多い僕であるが、こと風流、風情といったセンス においては日本は世界に誇れるものを持っているのではないか。毛唐には絶対わかりっこない四季の移ろう儚さを愛でるセンス。

京浜急行で横浜から横須賀方面に向かうと、しばらく線路に平行して大岡川の景観を見ることができる。横浜市部を流れる大岡川流域は決して風情のあるものと言い難いが、年に一度流域の桜並木が咲き誇る季節は黄金町、日の出町といった猥雑な街も華やいだ趣がある。

昨日朝、横浜から京急に乗り、学校のある金沢文庫に向かう車中、車窓からまだまだボリュームある花弁をつけた桜並木が目に飛び込んできた。川面にはびっしりと「花いかだ」が漂う。寝不足の目に眩しい桜色。

いろいろ曲折あって、新学期があけた。生きる意味、ということを考えるに、ひとつには「人に必要とされること」というのがあるのではないか。必要 とされることが生き甲斐なのだ、と思いつつ、新年度あまりブー垂れないで粛々と参りたいと思う。と、「粛々」は無理だな。僕はお喋りだから。


画像はウェブから拝借した大岡川の桜、京浜急行の赤い車両が見える。

2008年4月6日日曜日

町田


昨日は、春爛漫の昼下がり、音楽ライター浜野サトルさんと町田で面会。喫茶店、ファミレスと河岸を変え、ビールジョッキ傾けつつ、浅薄、稚拙、退行現象の加速が 止まらない日本のメディア文化について互いに悲観し、また格差広がる社会構造、お粗末な政治、不届きな役人、これでは近い将来、日本は世界の奈落に沈むで あろうよ、てなことを、そこそこに屈折したおじさん達は語り合い、都合5時間あまり、帰宅して少しまどろみ、夜半に目覚め、そのままベッドに潜り込んだ が、何やら急に深い絶望感に襲われ眠れなくなった。

町田は思えば久しぶりに行ったが、陸橋上はなはだ景観損ねる屋根ができ、「ゴミゴミ感」が以前にも増して、雑踏を闊歩する人混みの多くは「マチダ 系」とでもいうのか、白痴的若者。ショッピングモールでは、その白痴的若者をターゲットにした夥しい商品物品が溢れんばかり所狭しと陳列され値札が付けら れ売られているが、あんなもの、誰が買うのかと浜野さんは言った。モノが溢れ、人が溢れ、午後の陽光は街に溢れていたが、希望だけは溢れていないなあ、僕 は思ったのでした。

呪ったところで仕方がない。誰のせいにもしてはならぬ、と自分に言い聞かせております。


画像は一昨日の朝日新聞「ひと」から「80点取った高校生におまけするコロッケ店主」の記事。僕も「読んで幸せになった」。100点ではなく、90点でもなく、80点というのがいいですね。

今の世の中、愚かな人ばかり出張っているけれど、この人、森島さんは本当にえらい人だなあ、好きだなあ、と。こういう名もなき人でえらい人の存在を知ると自分のダメさ加減を大いに反省することになる。

2008年4月5日土曜日

パンクチュアル


パンクチュアル〔punctual〕というのは、時間をよく守る、厳守する、という意味の英単語だが、アメリカ西海岸にいたとき、彼の地の人々は割合、時間にルースなところがあり、しかし、待つことにも待たせることにも鷹揚な面も感じたものだ。

パンクチュアルという言葉はパンクチュエイト〔punctuate〕、句読点をきっちり付ける、という言葉から派生していて、きっちり、かっきり、几帳面というニュアンスがあり、まあ、いいじゃないか、人間だもの、という「みつを的人間賛歌」の理念に反する側面がありますね。

だから、英語でパンクチュアルというと、若干ネガティブな意味合いも含まれるように思う。やや非人間的ではないかと。彼の地ではパーティなどで午後6時頃においでと言われ、6時きっかりに行ったりすると誰も来てなかったりして、むしろ少し遅めに到着するのがマナーだとされる。

日本ではパンクチュアルであることは美徳と言うより、社会的常識であり、きっちり時間を守ることの大切さを小学校以来躾られ、かくして日本人は世界に冠たるパンクチュアル国民となり、例えば電車ダイヤの正確さにおいては、ラテン系諸国民から見れば神業であると思われるであろう。

ラティーノが待ち合わせを午後3時に、と言ったら、まあ、前後1時間くらいのタイムラグをカウントした方が良いでしょう。ジャマイカあたりでは午前と午後の区別くらいしかないと聞く。さすが、ジャマイカだ。待たされる方も「じゃ、ま、いいか」と思いつつ気長に待つのであろうね。

さて、かく言う僕は日本国民らしくパンクチュアルな人間であると思う。基本的に根が真面目であることもあって、人を待たせるのはとても失礼だと思う常識はある。で、実際、仕事がらみの待ち合わせ等で遅れるような失態はほとんどしたことがない。歯医者の予約時間もきっちり守ってきた。

そういう僕が昨日、遅れてはならぬ大事な待ち合わせに遅れた。遅れた原因は身も蓋もない「寝坊」である。僕のような真面目な人間が失態をやらかすのはいつも遅れてはならぬ大事な局面なのだった。まあ、平謝りで事なきを得たが、焦りました。

そうそう、猫は意外とパンクチュアルな動物です。一日の行動はかなり正確な時間によって区切られているように思う。起きる時間、餌をねだる時間、ウンチの時間、遊ぶ時間、きっちりしている。でも、区切り区切りの間は大体、惰眠を貪っているわけで、人間のように生産的ではないところが猫らしいところ。

僕は寝る時間も起きる時間も食べる時間もわりとまちまちなので、そういう意味ではパンクチュアルではないな。考えてみれば本質的にはパンクチュアルな人間ではないのかも。本質的には真面目じゃないのかも。小、中学校の時は遅刻はよくしてたっけな。


ところで、2月3月と「ぢっと手を見る日々」を送っている内に日記アップも滞りがちになり、関係者各位におかれましては、山下は大丈夫か、生きているのか、というご心配の声もちらほら聞かれ、日記というものを公にしている責任というものも感じておりました。

しかし、いつまでもぢっと手を見てばかりもいかんだろうということで、密かにデビューを果たしておりましたYouTube動画を添えて、ブログを一新、ぼちぼちと日記を再開いたします。さてさて、新年度、新学期スタート間近、桜舞う春の宵、気分もあらたに諸々頑張ろうかなと。よろしくお願い致します。


*画像の「スパゲッティ猫」は、お気に入り猫写真のひとつ。LIFE社から発行されたSmiles Backという写真集から。コメントに猫の名前はFluff、生後8週間。食われようとしてるんじゃなくて、スパゲティの鍋の中に落っこちたところをレスキューされているところです。