2008年9月30日火曜日

半ズボン主義


橋本治のエッセイ集に『革命的半ズボン主義宣言』というのがあった。80年代前半、バブルに向かう直前の「祭りの前」のやや地に足がつかないような浮ついた世相、現象を橋本治流に斬る、といったものであった。

90年代初頭にこれを読み、僕は橋本治ファンになったが、彼のエッセイの多くは「平易な文体で書かれた難解な文章」なので、何を言いたいのかよくわからないが、すごく伝わる、というのが大体の読後感だった。ある意味、ボブ・ディランの歌のようだ。

以後、「半ズボン主義」という言葉が、僕なりの理想的な生き方=「ロックな生き方」に共鳴するところがあり、夏場は基本的に半ズボン(外出時も)を通してきた。まあ、涼しいし、なにより「楽である」ということが半ズボンを愛着する一番の理由であるが、「主義」というニュアンスもそこそこにある。

これは、「半ズボンは権威と相反するファッション」であろうかと思うからで、僕はなによりゴリゴリして高飛車な権威というものが嫌いなのです。僕の言う「ロックな生き方」というのは、まず、権威主義というものを侮蔑するところから始まるわけです。

近年、亜熱帯化する日本において、「省エネルック」(これは死語か、今は「クール・ビズ」と言うのか、しゃらくさい言葉だ)として、定着しつつあるノーネクタイであるが、政治家という人種はこれが似合わない。元々「ロックな感性」など、かけらも持ち合わせていない人種なので無理もないが、とりわけ新総理アソウのノー・ネクタイ姿は嫌だった。

その点、旧総理フクダは「自分を客観視できる」と豪語した通り、夏場でも基本的にネクタイ着用を通した点では評価されよう。彼は自身が「ロックのかけらもないこと」をよくわかっていたという客観性において評価するわけですけどね。

しかし、いかにノー・ネクタイ、クール・ビズの政治家がマジョリティになろうとも、半ズボンはさすがに穿かないだろう。政治家が半ズボン穿いたら滑稽以外何物でもない。(オザワは似合うかも知れないな、ランニングと半ズボンの「清スタイル」)

新内閣閣僚集合写真撮影においては、みんな半ズボンを穿かせて立たせてみたい(女性閣僚には「芋ジャー」で)。それで、閣僚諸氏と少し離れて、失言ナカヤマ君には半ズボンの上、バケツを両手に持たせ立たせてみたい(クラシックな「立たされ坊主」役として)。

と、まあ馬鹿なことを書いたのは、昨日、一昨日と急激なクールダウンで、さすがの僕も半ズボンではいられなかったことへの哀惜から。季節は半ズボンから長袖トレーナー&ジャージズボンに変わる。いろいろと淋しい。


画像は「猫レッグウォーマー」(ウェブから拝借)
以前、猫がごろごろいたときにはこれができたが(猫炬燵)、今は猫を飼っていないのでできない。淋しい。

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